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ここまでは、主に鎌倉時代と室町時代に関して、「国府」は、南北朝期の一時期、限定的に存在はしても、全体としては信夫郡にも多賀城にも、実質的な「国府」と言えるものは、その「定義」に照らして存在しないと云うことを言ってきたつもりだ。

陸奥総社宮

しかしYさんは、奈良時代、平安時代にも福島の信夫郡に「国府」があったと考えられているようだ。ここから先は、奈良時代、平安時代には国府は多賀城にあったということをまだまだ不勉強ながら論証していこうと思う。

奈良時代と平安時代の後三年の役までの間は、まがりなりにも律令制は存在し、またその他に「陸奥国府」には蝦夷への軍事的対応をしなければならない大きな役割があった。この時代の多賀城は、「中央から派遣された官吏が、令制国の政務を執る施設(国庁)が置かれた都市」という定義に表面的には合致する。

現在の多賀城は、調査の結果、政庁を持ち、街路が延び街区が形成され、一定の区域内に国司館跡とされる(木簡が出土)山王遺跡があり、また当時の「国府」にはつき物の付属寺院の多賀城廃寺跡、総社神社、さらにその外側には、陸奥一ノ宮の塩釜神社、大小の窯跡、製鉄所跡、さらには国府の湊といわれる塩釜の浦、鴻ヶ崎(国府ヶ崎)があり、多賀城までの物資の運搬路としての冠川に接続している。その様相

山王遺跡(国司館跡)

は「令制国の政務を執る施設(国庁)が置かれた都市」に誠にふさわしい。

 

もちろんそれだけではない。いくつかの決定的ともいえる物証がある。その一つは、この地から出土した多数の木簡で、それらは事細かな中央とのやり取りを今に伝えている。もう一つは、鴻ヶ崎近くの古社の鼻節神社から発見された「国府厨印」である。多賀城からは少し離れているが、多賀城の留守職で、南北朝期には南朝方だった留守氏の支城のあった地で、争乱の時期にこの地に隠し置いたものと考えられる。

さらにもう一つは、松尾芭蕉も立ち寄ったことで有名な壷ノ碑である。この壷ノ碑は、天平宝字6年(762年)12月1日に、多賀城の修築記念に建立されたと考えられるものだ。内容は、各地から多賀城までの行程を記す前段部分と、多賀城が大野東人によって神亀元年(724年)に設置され、恵美朝狩(朝獦)によって修築されたと記された後段部分に分かれる。大野東人は、参議陸奥国按察使兼鎮守府将軍で、当然「国司」である。この壷ノ碑には、明治時代に真贋論争が起こったが、現在は「真碑」として国重文に指定されている。

湊浜(鴻ヶ崎

その他、多賀城の周辺には、大野東人や坂上田村麻呂、大伴家持、源融、藤原実方らの伝説や、官人の生活や信仰などもふくめた伝説が重層的に存在し、多賀城「国府」を支えている。

これらの物的証拠、状況証拠を「捏造」と主張することも可能ではあるが、これらの膨大な「証拠」を全て検証しても、ほとんどは検証済みで、捏造とする決定的な根拠はまず出てこないだろう。その意味でYさんが言う『奈良時代、平安時代にも福島の信夫郡に「国府」があった』とする論は、かなり無謀だと感じる。

ここから先は、主に平安時代の「国府」について考える。平安時代には蝦夷の反乱に対して、多賀城は次第に軍事的な色彩を強くしていく。田村麻呂の時代には、アテルイが官軍を悩ませた。朝廷は、宮沢官衙や胆沢城、紫波城を築くなど拠点を北上させていく。

宮沢遺跡

その中でも、宮沢官衙遺跡は、多賀城の1.5倍、出羽国府秋田城の4倍もある。この当時は、多賀城は軍事的な後方支援基地の役割が多かったろうと推測でき、場合によっては、宮沢遺跡などは、国司の移動により、単に城柵としてだけではなく場合によっては国府の機能も持ったかもしれないとは思うが、官軍が北上する中、国府が多賀城から福島信夫郡に後退するなどは考えられない。

いずれにしても、この官軍の蝦夷討伐は、坂上田村麻呂の時期、桓武天皇の判断により、主に財政的な理由で征夷は中止される。このため奥六郡は当面朝廷の手の届かない地になり、古い時代に朝廷から派遣された阿倍比羅夫を祖とするとされる安倍一族の支配するところとなり、朝廷は半独立状態の奥六郡を認めるしかなく、これがその後の前九年の役につながっていく。

紫波城址

この前九年の役と、それに続く後三年の役の詳細については省くが、安倍氏は表面的には多賀城国府に従っており、多賀城周辺や宮城県南部はもとより、勿来の関など福島県にも平和な時期の伝説を残している。しかしその勢力は奥六郡を越え、平泉藤原氏の祖である、宮城県亘理の官人の藤原経清と姻戚関係を持つなど、勢力を拡大していた。そして遂に官軍と安倍氏は衝突し、それに対し朝廷は、本来武官である源頼義を国司として多賀城国府に送り、頼義は義家とともに、出羽の清原氏の助けも得て、各所での戦闘の末安倍氏を下す。

さらにその後の後三年の役では、源義家が「陸奥守」となり戦い、出羽の清原氏を下し、藤原清衡を陸奥国府の目代とし都へ引き上げる。このとき、源義家の清原氏との戦いは私闘とされ、このため義家は自分の責任で鎌倉権五郎など多くの家臣に恩賞として所領を与えている。これらの義家の家臣の多くは、その後平泉藤原氏と結び、あるいは被官となり、または従属し、その後の奥羽に一定の勢力を持つようになる。

頼朝が陣を敷いた国見藤田城

この源義家の「陸奥守」の時が、実際上の国司としては最期であり、多賀城国府も形式的なものとなり、奥羽の政治の中心は平泉に移ることになる。Yさんは、この藤原氏の拠点も福島信夫郡にあったと考えているが、それはないだろう。陸奥に残った藤原清衡の勢力基盤は、出羽の清原氏と安倍氏の旧地である。遠く離れた福島信夫郡に本拠を置いたとすれば、それにふさわしい大きな理由がなければならない。

このときの藤原清衡の立場は「陸奥目代」で、国司ではないが、国司の代理として陸奥の国人勢力や官人を束ねることはできる絶妙な立場だった。また平泉の地は、国司不在の陸奥で、白河以北と出羽を見通すのには絶妙な地といえる。その意味で、平泉は「国府」ではないが、陸奥を統治するという意味合いでは、実質的には「国府」的な役割は持ったはずだ。

いずれにしても、後三年の役で、奥羽の地は平泉藤原氏と源義家の家臣らにより領地化され、実質的に律令制は崩壊し、国府は形式的な権威だけを残し名実ともに消えたと考えられる。

平泉藤原氏は、国司ではなかったが「陸奥目代」として、実質的な統治者となり、その政務は平泉を拠点として行われたと考えられる。後三年の役を共に戦った、源義家の郎党や、国衙領や荘園の官人を被官化し、また政略結婚で一族に取り込むなどで、その勢力をさらに強固なものとしていった。

阿津賀志山防塁

 

また、子の多くに所領を与え各所に配し、地歩を固めている。例えば西木戸太郎、本吉五郎、日詰六郎などがそうであり、藤原四代の泰衡も伊達を冠していたことがある。またここで問題の福島の信夫郡の信夫庄司佐藤基治は三代秀衡の妹の(異説あり)乙和姫を妻とし同盟関係を結び、あるいは臣従した。

平泉藤原三代は、実質的に奥羽を統治し、その伝説も広範囲にわたる。このような藤原氏が、その支配下の地で、「国司」として遇されたことは当然に推測され、信夫郡に「国司」「国府」に関わる地名や伝説があったとしても不思議ではない。

しかしその強大な勢力を、鎌倉が放置しておくわけもなく、奥州合戦につながっていく。その詳細は省略するが、この時期のことは、歴史資料としては一級品とされる「吾妻鏡」に記されている。この吾妻鏡には、多賀城国府の記載はあるが、信夫郡の「国府」の記載はない(見つけていない)。

「吾妻鏡」によれば、源頼朝は、文治5年7月29日(旧暦)に白河関を越え、8月7日、阿津賀志山に陣取る藤原国衡に対し国見に陣取る。この間、Yさんが主張する信夫郡の「国府」に入ったという記載はないし、平泉藤原氏の信夫郡の本拠の「~御所」に入ったなどという記載ももちろんない。このとき信夫郡に「国府」や藤原氏の本拠があったとすれば、その国府や本拠館に入ることは、陸奥の統治上重要なことで、その記載がないということは、信夫郡に「国府」や、まして藤原氏の「本拠」は存在しなかったと考えるのが妥当である。

頼朝は阿津賀志山の平泉勢を破り東街道を北上し、途中平泉勢を打ち破りながら、8月13日多賀城の国府に入った。

『8月13日 庚子、比企の籐四郎・宇佐美の平次等出羽の国に打ち入り、泰衡郎従田河の太郎行文・秋田の三郎致文等を梟首すと。今日、二品多賀の国府に休息せしめ給う。』

また、8月15日付けの頼朝自身の文書があり、

『頼朝(花押)、あすは、こふ(国府)のこなたにちむのはらといふところニ御すく候へし、いくさたちニハ、こふ(国府)にはすくせすと申なり、かまへてひか事すな、あかうそ三郎を、やうやうニせん…』

とあり、この時期の源頼朝は、多賀城を「国府」として認識している。

留守氏の拠点の岩切城

ここまでの私の検証の結果としては、大和朝廷の陸奥支配機構として、「国府」は多賀城に置かれたということになる。名実ともに意味を持っていたのは、東北では蝦夷に対するもので、武士が力を持つようになってからは、その意味合いは象徴的なものと化していったものといえる。

「陸奥国府」の場合は、源頼義、義家の時代までが実質的な「国府」であり、それ以降は「権威」としての象徴的なものになった。江戸時代には、伊達家が「陸奥守」を歴代称するが、もちろん仙台城が国府であろうはずもない。

源頼朝が平泉征討のときに多賀城に入り、その後、伊沢家景を留守職として置いたということは、頼朝は多賀城を陸奥支配の象徴的な要として考えたからだろう。

その後、南北朝期に入り、南朝方は、奥羽の諸勢力(南部、葛西、伊達、白河結城など)を糾合するため、義良親王や国司北畠顕家が奥羽の支配の象徴としての多賀城に入り、軍事的に限定したものではあったが、一時的には「国府」として機能した。

しかし、「国府」は、律令制をその存在基盤とすると考えれば、現実的には、「陸奥国府」は、奈良時代から平安時代の後期までのものと考えるのが最も妥当と思われる。

もちろん「国府」が福島の信夫郡にあったということは考えにくく、信夫郡にあるとされる、「国府」に関する記載や地名、伝承などは、藤原秀衡や霊山城に関わるものと考えられ、それはそれで興味深いことである。それを掘り下げていくことは意義深いことであり、その意味で、福島市在住らしいYさんの「信夫郡国府説」にエールを送るものである。

※写真は南北朝期の留守氏の拠点の岩切城、陸奥一ノ宮の塩釜神社、震災前の冠川河口の夕日