源義経は、源平合戦で輝かしい戦功をあげながら、兄・源頼朝と不和になり、追われる身となり、再び奥州藤原氏のもとに身を寄せた。しかし、当主藤原秀衡亡き後、その子の泰衡によって、文治5年(1189)高館を攻められ、妻子と共にその生涯を終えた。享年31歳だった。
しかし、義経は藤原秀衡亡き後、不穏な平泉を密かに抜け出し北に向かったのではないか、という義経北行伝説が、古い時代からまことしやかに囁かれ、現在も伝説として宮古、下閉伊はもとより、岩手県沿岸北部から青森、北海道に至る各地で語り継がれている。
私は、これらの義経北行伝説のモチーフは、3つあったと考えている。
一つは平泉から三陸沿岸を通り青森市の浅虫までのルートであり、これは平泉滅亡後、平泉の郎党大河兼任が出羽で乱を起こしたことからのものと考えられる。
大河兼任は、文治5年(1189)12月挙兵し、源義経と称して出羽国海辺庄に現れ、また同国仙北郡では木曽義仲の嫡男、朝日冠者義高と称するなど、鎌倉方を撹乱した。そしてついに、男鹿地方の地頭橘公業らを襲撃し、多賀城の国府を目指し、一時は怒涛のような勢いで平泉を奪還し、栗原郡一迫方面まで進出した。
これに対して、鎌倉勢は、畠山重忠、比企能員を大将軍に任じて大軍を派遣。孤立していた葛西清重らも合流。栗原郡一迫で合戦になり、大河勢は敗れた。大河兼任は残兵5百ほどをまとめ平泉で戦ったが多勢に無勢敗れた。しかし兼任の執念は、すさまじく、現在の青森市浅虫付近に砦を築き、最後の抵抗を試みたが、足利義兼に急襲され大河勢は雲散霧消した。
平泉で敗れた大河勢は、三陸沿岸を逃れ、それぞれに隠れ住み、あるいは砦を築き、あるいは蝦夷地に逃れたのだろう。おそらく、これらの大河勢の逃避行が三陸沿岸に残る伝説のモチーフになったと考える。
岩手県平泉町
「高舘」藤原氏から義経が与えられた居舘、定説ではこの地で自害したとされる。
岩手県一関市
「観福寺」亀井六郎重清の笈が寺宝として伝わる。笈には砂金が満載されていたという言い伝えもある
岩手県奥州市
「弁慶屋敷」義経一行が立ち寄り、粟5升を求めその場で炊いて食し、近くの五十石神社に3日ほど滞在したという
「多聞寺跡」義経一行が宿泊、鈴木重家の笈、弁慶腰掛松もあったという
「玉崎神社」義経一行が参拝した。一行はこの神社に5日間滞在したという
「源休舘」義経一行が休憩したと伝えられる地、義経の「舘」あるいは「城」として伝えられる
岩手県遠野市
「赤羽峠」義経一行が超えた難所
「風呂家」義経一行が立ち寄り、風呂を所望したと伝えられる。
「駒形神社」赤羽峠を越える際に死んだという、義経の愛馬「小黒」を祀るとされる。
「日出神社」義経の娘、日出が義経の後を追ってきたがこの地で病死し、それを祀るとされる
「続石」弁慶が巨岩を運んだという言い伝えがある。
岩手県釜石市
「中村判官堂」義経一行はこの地に宿泊。義経が残したとされる鉄扇と関係した古文書があったとされる
「法冠神社」義経一行が山越えをしてこの地で野宿したという。
岩手県大槌町
「駒形神社」義経一行が休息し馬をつないだという。大槌は金売り吉次の生まれた土地とされる。
「宮の口判官堂」義経一行が野宿をしたという地