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津軽半島での義経北行伝説は、三陸沿岸から青森市にかけての伝説とはそのモチーフが異なると思われる。津軽半島には、平泉藤原一族の十三氏が、十三湊を中心とし勢力を保持しており、源義経は、平泉時代に何度か訪れたものと思われる。

しかし、鎌倉幕府は、藤崎城の安東貞季を津軽外三郡の蝦夷管領に任命した。これにより十三氏と安東氏は対立し、寛喜元年(1229)、両軍は平川沿いの萩野台で合戦となった。この戦いは安東氏が勝利し、十三氏一族は、蝦夷地へ流罪となり没落した。

これにより安東氏は十三湊を手中にし、福島城を整備し栄華を極めた。安東氏は、蝦夷地から本州の日本海沿岸まで貿易を広げ、安東水軍などとも呼ばれ十三湊には一大都市が築かれ活況を呈したと伝えられる。

南北朝期、安東氏は南部氏とともに南朝方に属したが、応永18年(1411)、三戸の南部守行が陸奥守に任ぜられると、これを機として南部氏は津軽統一に乗り出し、安東氏との仲は険悪になった。その後、南部氏と安東氏は姻戚関係になったが、嘉吉3年(1443)頃、南部政盛は安東盛季に見参のためと称し福島城に入り、奸計をもって一晩で福島城を奪取した。福島城を追われた盛季は、さらに中泊の柴崎城を経て、蝦夷地に逃れた。

津軽半島の義経北行伝説は、十三氏と安東氏の蝦夷地へ落ちた史実がそのモチーフになっているものと考えられる・

青森県弘前市
「円明寺」
義経一行は、途中、当時は油川にあった円明寺に立ち寄り、道中安全祈願をした。この時、弁慶写経の大般若経と笈を残していったという。
青森県藤崎町
「保食神社」
義経の愛馬がこの地で病死し、神社に馬頭観音を祀り供養したという。
青森県青森市
「大星神社」義経が参拝に訪れ、面を奉納したと伝えられる。
「松尾神社」義経の装具、はばき(脚絆)を寄進した事からハバキ神社と呼ばれたともいわれる。
「善知鳥神社」義経が参拝に訪れたと伝えられている。
青森県五所川原市
「福島城」十三氏時代に義経が何回か訪れたと思われる。
「十三湊」十三氏の経済力の基盤となっていた蝦夷地貿易の拠点。義経も当然何度か訪れているはず。
「壇林寺」十三湊での義経の滞在先と伝えられる。
青森県外ヶ浜町
「厩石」義経一行が蝦夷へ渡るため、この地へさしかかると、大時化になった。波風は一向に治まる気配がなく、義経が三日三晩祈り続けると、白髪の翁から3頭の白い竜馬が授けられ、波風も治まり、その竜馬に乗って海を渡ったとされる。
「義経寺」この地で義経が波風を鎮めるため、母常盤御前の形見の観音像を岩上に祀り、竜馬を得て海を渡った。このいわれを知った円空は、寛文7年(1667)、流木で仏像を刻み、小さな観音堂を建立し、その中に観音像を納め、義経寺が始まったとされる。
「甲岩」義経が無事蝦夷地に渡れるようにと、愛用の甲を海神にささげたという。
「竜飛岬」岬からは天気の良い日には津軽海峡を挟んだ北海道の松前半島が見える。竜飛岬には、冬には雪交じりの強風が吹き荒れ、そのような時、白い竜馬が飛ぶという。