宮城県登米市に、古代の蝦夷の城砦であるチャシに手を加えたと思われる「月輪館」があり、この地一帯には、「迫合戦」なる伝説が伝えられている。
それは次のようなものだ。
==「月輪館には、月輪七郎、六郎の兄弟が館主としてこの地を治めていた。月輪兄弟は、三位中将藤原師門の家臣で、天文19年(1551)の迫合戦、岩ヶ崎鶴ヶ城における出羽国主八条秋長(顕長)との戦いにおいて、戦い利あらず、主君師門の身代りとなり、七郎は主君の衣装を身につけ、師門を名乗って秋長の面前にて腹かき切って、太刀をくわえて逆さまに落ちて自刃した。弟六郎も同じように自刃した。妹の折居姫もまた、討峰中腹で自害して果て、月輪家は滅亡した」==
伝説はもちろん史実ではないが、歴史の多くは権力者側のものである場合が多く、それらの「定説」が必ずしも史実とは言えないだろう。史実は伝説の中にも多く含まれていると私は考えている。しかしながらその扱いは注意深く行わなければならないことは当然のことだろう。
この伝説の中に出てくる「三位中将藤原師門」「出羽国主八条秋長」なる人物は、実在の人物としては探すことが出来ない。天文年間の、迫一帯の支配者は奥州総奉行の葛西氏であり、葛西氏は平氏の出であり、平姓を名乗ることはあっても藤原姓を名乗ることはない。また、当時の「出羽の国主」は最上氏と考えられ、中世の出羽の歴史の中で「八条」姓を探すことはできない。
まずはこのことから、この「迫合戦」の伝説は、創作である可能性が高いと判断した。伝説は、史実がもとになっている場合がもちろんあるだろうが、その他に、巨石や巨木などへの自然崇拝からのもの、仏教などの布教のための説話などからのもの、歌舞伎や浄瑠璃などからのもの、などが考えられる。
この「迫合戦」伝説は一種の軍記物であり、また地方色も強い。この地方色の強い軍記物が、伝説となるほどの影響を与えたものとして、私は仮説として奥浄瑠璃を考えた。奥浄瑠璃は、江戸時代の仙台藩領で盛んに演じられたようだ。松尾芭蕉の「奥の細道」の中でも、塩釜の宿で、夜に遠くで流れる奥浄瑠璃を趣のあるものとしての記載がある。
娯楽の少ない当時の庶民は、身近な地名も随所に出てくる中での、豪傑たちの活躍やその忠義や壮絶な死に、喝采しそして涙したのだろう。宮城県北部には、この迫合戦伝説の他にも、奥浄瑠璃からのものではないかと考えている伝説がいくつかある。機会があれば紹介したいと思うが、もしかするとこれらの戯作者は、宮城県北部の出身者ではないかとも思われる。
「迫合戦」伝説は、恐らくは創作だろう。しかし創作にしても何らかのモチーフがあったと考えられる。そのモチーフは何なのだろうか。
この伝説の、迫周辺で起きた葛西氏を巡る合戦で、天文年間のものを考えてみた。
この時代は葛西氏は、内部の争いが激化しており、さらに栗原を巡る大崎氏との争いもあり、葛西稙信は伊達氏と結んでいた。伊達稙宗は、稙信の嫡子稙清に男子がなかったため、晴清を養子として送っていた。しかし家中には、反伊達派も多く、葛西家中の争いはさらに複雑なものになっていった。この葛西稙清の死も、反伊達派による暗殺という説もある。
いずれにせよ、この稙清の死により、反伊達派が力を得て、晴清の葛西氏相続の道は絶たれた。これを知った伊達稙宗は、葛西氏の違約に対し、会津の葦名盛舜の支援を得て、葛西領内に侵攻した。この戦いはかなり激しいものだったようで、佐沼および新田方面で激戦が行われ、葛西氏の居館まで攻め込まれたという。葛西方は討死、腹切る者数知らず、と伝えられ、葛西軍の惨敗だった。
伝説では、「月輪兄弟の妹の折居姫が、館を脱出し討峰中腹で自害した」とある。月輪館跡と伝えられる地は、実は2ヶ所あるが、どちらも葛西氏の本拠城である保呂羽城から4kmほどの場所で、どちらにもほぼ同じ伝説が伝えられている。いずれにしても伝説は葛西領のほぼ中心部まで攻め込まれたことを示している。
葛西氏が、その中心部まで攻め込まれたのは、豊臣秀吉の奥州仕置までは、私の知る限りではこれしかない。恐らくはこの伝説のモチーフは、この伊達氏との争乱だろうと考えた。
しかしどうもそれだけではなさそうだ。この話には、「岩ヶ崎鶴ヶ城」「出羽国主」が出てくる。
岩ヶ崎は、現在の栗原市で、葛西氏の西端で、大崎氏と境を接していた。この地の岩ヶ崎鶴ヶ城には、葛西氏の一族の富沢氏が武威を張っていた。しかし主家の葛西氏に対し、必ずしも従順ではなく、葛西氏内部では火種になっており、葛西氏はその対応に苦慮していた。
天正7年(1578)には、富沢直綱は葛西氏に対し反乱を起こし、当初兵乱は富沢氏の優勢に進んだが、当時の葛西太守の晴信みずからが富沢征伐のために出馬し、富沢氏はついには城下まで攻め込まれ敗れた。しかしこの富沢氏の背後には、大崎義兼、最上義光らの煽動があったようで、その後も度々反乱を起こしている。
しかし、この伝説の時代設定は、天文19年(1551)とあり、伊達稙宗と晴宗との間に起こった天文の乱の収束後である。この時期には、少なくとも葛西領の中心部にまで及ぶ合戦はなかったと思う。また天文年間の出羽は、まだ統一前で、出羽から岩ヶ崎の口は天童氏と結んだ細川氏が抑えており、葛西領に侵攻出来る勢力はない。
これらのことから、この伝説は明らかに創作だろうが、月輪館周辺に存在する折居姫を祀ったとする折居権現や、月輪館の館神としてこの伝説を伝えている七面観音の存在などを考えれば、私には史実としての、葛西氏相続を巡る伊達稙宗の葛西領侵攻による合戦がモチーフと思える。
ただし、その後この地は伊達氏の支配するところとなり、伊達氏と葛西氏の争乱と見られることには憚りがあり、後年の富沢氏の反乱の影に見える最上氏を意識し「出羽国主」を登場させたのだろう。
私はこの伝説のモチーフは確実にあったと考えている。奥浄瑠璃などでの創作を楽しんだだけなら、自害したとされる折居姫を祀り祠などを建てることはないだろう。また月輪館の館神を祀り、この伝説を伝え続けることもないだろう。
この地は葛西氏が支配していた地で、奥州仕置の時期に葛西氏は没落した。その後の葛西大崎一揆では、伊達政宗により徹底的に鎮圧され、葛西氏の家臣などには、この地で帰農した者も多かったろう。そのためか、この地域には仙台などとは違い、今も伊達政宗に対しては複雑な思いがあるようだ。
物語的に考えれば、奥浄瑠璃などに由来すると思われるこの伝説の戯作者は葛西氏の流れを汲む者で、自ずからの出自と葛西氏の誇りを、伊達氏の支配下の江戸期に残そうとしたのではないだろうか。また、この地に残った葛西氏の流れを汲む者達が、それを後世に語り継いだものと考える。これは根拠のない大きな飛躍であることは承知で、そう考えたい。