スポンサーリンク

義経北行伝説によれば、普代村には比企(安達)藤九郎盛長の伝説が残り、また久慈市の諏訪神社には畠山重忠の伝説が伝えられる。畠山重忠も比企盛長も大河兼任の乱の際の、鎌倉方の追手であり、普代村から久慈市の地で、大河勢に遭遇したのだろう。

大河勢は、八戸に城砦を築き、反抗の拠点にしようとしたのかもしれない。しかし結局かなわず、このルートの最後の地だろう善知鳥崎の地で最後の戦いを戦ったのだろう。


岩手県山田町
「飯岡八幡神社」この地域一帯は、信夫庄司佐藤基治の三男で、佐藤嗣信・忠信の兄弟である佐藤信正が治めていたとされ、この地に入った義経主従は歓迎されたようで、もてなしたときに使ったとされる、陣中釜、酒壷、秀衡椀が残されている。
岩手県宮古市
「判官神社」一行はこの地にしばらく滞在し、鞍馬寺の毘沙門天を奉祀したという。義経と北の方の木像が安置されている。一行の山名義信の子孫が祀ったという。
「鈴ヶ神社」静御前が義経を追いかけてこの地で義経と再会したが、静は妊娠し難産の末この地でなくなったと伝える
「横山八幡宮」義経はこの横山八幡宮に参籠し、大般若心経100巻を奉納したと伝えている。この時、家臣の鈴木重家は、老齢のためこの地に残り、八幡宮の宮守となり、この地方の鈴木姓の祖となったという。
「黒森神社」義経がこの地で行を修め、般若経600巻を写経し奉納したという。黒森は、「九郎森」から転じたものであるとも伝えられている。
「判官稲荷神社」主従はこの地に仮の館を構え、三年三月この地に住まい、この地を去るとき、義経が着用した緋縅の鎧を置いていき、宝物として伝えられていたとも云う。
「久昌寺」この地には、源氏の一族である源義里が居館を構えており、主従が途中立寄ったと伝えられている。
岩手県普代村
「鵜鳥神社」義経はこの山に七日七夜寵り、武運長久と蝦夷地への道中無事を祈願した。義経は神託を得て祈願し、三柱を勧請したという。
「藤九郎様」追っ手の比企藤九郎盛長を祀る。藤九郎は義経の人徳に心打たれて家来となった。
岩手県久慈市
「諏訪神社」一行は、この地で追っ手の畠山重忠の一隊と出会う。重忠は義経を哀れに思いわざと矢をはずし一行を逃したという。
青森県八戸市
「種差海岸」一行は、久慈の侍浜から舟で北へ向かい、この種差海岸に上陸したと伝えられる。
「小田八幡宮」義経は毘沙門天の像を納め、また、この地に自ら小さな田を開いたことからこの地を小田(こだ)と呼ぶようになったと伝えられる。
「館越山」主従は、市内を流れる新井田川をさかのぼり、この館越山に居を構え、一旦この地に落ち着いたという。
「龗神社」義経は、京育ちの北の方を伴い八戸に一旦落ち着いたが、しかし北の方は、病を得て亡くなった。義経はその亡骸を、京ケ崎と呼ばれていたこの地に葬ったと云われ、北の方が使用していた手鏡が龗神社に収められた。
「三嶋神社」義経は、この地の有力者をたよりしばらく潜伏した。この地には「判官」からの「法官」という姓が残っている。また義経はこの地で水汲みに来ていた娘を見初め、やがて女の子が生まれたという。
「矢止めの清水」弁慶が、長者山から弓を射ると、矢は馬渕川を越えて、3千mをへだてたこの地に深く突き刺さった。矢を引き抜いたところ、清水がコンコンと湧き出したという。
青森県青森市
「貴船神社」義経を追った愛妾の浄瑠璃姫が、この地で義経との再会を果たしたが、この地で病を得て姫は亡くなったという。
「善知鳥崎古戦場」大河兼任は残存兵力を率いてこの近くの山に砦を築き立て籠もった。しかしすでに兵力は少なく、足利義兼らの急襲を受け破れ、大河勢は雲散霧消した。