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先日、このサイトに、福島市在住のYさんから、「多賀城にあったとされる陸奥国府は、奈良、平安、鎌倉、室町各時代を通じ、実は現在の福島市にあった」というメールをいただいた。

元来、そのような話は好きなので、早速返事をし、その根拠となるような話を伺いながら、現在の定説を支えている膨大な状況証拠、物的証拠、多賀城周囲の史跡群、伝説などについてもお考えを伺おうとしたが、導入部の話だけで終わりになってしまった。折角なので、Yさんとのやりとりも含め、準備した資料なども紹介しながら、ここで一人論を進めようと思う。

「国府」とは、そもそも大和朝廷が、その律令制度の中で、律令で定めた「国」を統治するために、中央官人を派遣したもので、まず歴史上の用法では、

「国司」とは、『中央から派遣された官吏で、四等官である守、介、掾、目等(wikipediaより)』
「国府」とは、『日本の奈良時代から平安時代に、令制国の国司が政務を執る施設(国庁)が置かれた都市を指す(wikipediaより)』

多賀城址

と考えるのが現在のいわば「定義」である。Yさんのお考えの中での、鎌倉、室町時代の「陸奥国府」については、律令制度は崩壊しており、「国府」の存在意味はなかったはずだ。平安時代の末期、恐らくは後三年の役の後には「陸奥国府」は有名無実化し、まして律令制下の国衙領や、荘園までも実質的には御家人の「領地」となる鎌倉時代以降は、多賀城にも福島にも存在しなかったと考えるのが妥当と思える。

Yさんが、「福島陸奥国府」説の根拠としてあげているものは、

①『藤原4代藤原泰衡は伊達泰衡と記述され、佐藤嗣宣が八島の合戦に出向くとき信夫郡の国府台で餞をされたという記述がある。』
②『源頼朝の奥州攻めの時の宣旨で、東国の国衙領、荘園の回復を条件に許可し、陸奥国の国衙領は名目上朝廷側支配となり、陸奥守が現実に存在した』
③『南北朝動乱の後の和睦で、国衙、国衙領は南朝方に、天皇は南朝、北朝で交互にたてるという条件だったのが守られず、伊達持宗らが現在の福島県庁の地の大仏城に立てこもりその後北朝支

多賀城廃寺址

配の大仏城は南朝側が支配するところとなった』

などが挙げられた。

これらの内、①については、平安時代末期の平氏政権は、鎌倉の源頼朝をけん制することを目的に朝廷にはたらきかけ、藤原秀衡を「陸奥守=陸奥国司」に任じた。しかしこれは「定義」にもあるように「国司は中央の官吏を派遣」していたのが通例であり、また律令制はこの時期にはほぼ崩壊しており事実上の武家政権であった平氏政権が決定したもので、朝廷内には不満を持つ者が多くあったらしい。つまりこの「陸奥守」は江戸時代の大岡越前守や直江山城守に通じる栄誉職で、「実」があったものとは思えない。

それでも「名」だけでも「陸奥守」であり「国司」であり、その館は尊敬をもって「御所」と呼ばれたのだろう。この藤原秀衡が立ち寄った先や関連した箇所に、「国司」や「国府」の地名や伝説が残っていてもなんら不思議ではない。つまり「国府台」を直接「国府」に結び付けるには無理があるということに

福島(大仏)城跡

なる。

 

Yさんの根拠②である。

源頼朝は、平氏勢力の制圧後、平泉攻めにかかる。このとき、Yさんの云うように、「源頼朝の奥州攻めの時の宣旨で、東国の国衙領、荘園の回復を条件に許可し」であったが、これは平泉征討軍を挙げた後であり、云わば鎌倉による朝廷への「恫喝」の結果であったはずだ。

Yさんは、これは「国府」の根拠の「律令制」が部分的にでも残ったと考えているのかもしれないが、現実的には平泉制圧後は、関東の御家人を中心として大量に奥羽各所に地頭として入り、国衙領や荘園を「領地」化していくことになる。それでも承久の変までは、それなりに朝廷側も抵抗していたようだが、それ以降は奥羽各所は地頭の「領地」となり、国衙領や荘園の官人は被官化されていった。

また鎌倉時代後期に北条(大仏)貞直が「陸奥守」になっており、Yさんは福島県庁の地にあった、行基の建てた大仏殿の跡に建てられたとされる「大仏城」が、この北条貞直を「国司」とした「国府」であっ

霊山城国司池

た考えているようだ。もちろんこのときの「陸奥守」は国司の定義の『中央から派遣された官吏』であるはずもなく、鎌倉が決め、形だけ朝廷を通したものだろう。また律令制度もすでに完全に崩壊しており、「令制国の国司が政務を執る」状態ではなかったはずで、一時的にも大仏城に入ったかどうかすら怪しいものと思う。

 

この鎌倉時代に、「国府」が形だけでも残りえたとすれば、鎌倉時代のごく初期の段階だけで、それでも「国府」の定義の中の『令制国の国司が政務を執る施設(国庁)が置かれた都市を指す』とは程遠いもので、形式的、限定的なもので、江戸時代の大岡越前守と殆ど差のない栄誉職的なものだったと考えられる。

南北朝時代、南朝方の義良親王(後の後村上天皇)と「陸奥守」北畠顕家らが多賀城に入り(Yさんは多賀城には行っていないと考えているようだが)南朝方の拠点となったと考えられる。南部氏、葛西氏、結城氏、伊達氏らの大勢力を味方にし、一時は京まで攻め上り足利尊氏を敗走させた。しかしその後は次第

霊山城国司沢

に北朝方に押され、拠点を福島県伊達市の霊山城や郡山市の宇津峰城に移した。

 

このときの「国司」は北畠氏であり、南北朝に分かれているとはいえ、国司の定義の、『中央から派遣された官吏』に合致しており、また、ほぼ軍事的なものだけではあるが『令制国の政務を執る』ことはしている。しかし「国府」の本来の目的の、律令制下での民政が行われていたとは考えにくく、もっぱら北朝方に対する軍事的な意味での政治であり、民政に必要な意味で国府の定義である『政務を執る施設(国庁)が置かれた都市』ではなかったと思われる。まして霊山城や宇津峰城は、戦いのための巨大な山城であり、「国府機能の一部を持った山城」と言うのが正確だろう。

その意味では、南北朝期に、律令制の復活を目指す南朝により、国府の一部は復活したと言っても良いと思うが、福島県においては、伊達市の霊山城に一時的に存在したということで、律令制が復活することはなく、結局武家政権が続いていくことになる。

この時点まで、鎌倉時代の地頭らは、地方に実際に下向し、地域に根を張り、国衙領や、荘園を「領地」とし、地方の官人らを家臣に組み込み、南北朝期の争乱では周辺地頭をも飲み込みながら勢力を拡大していた。この勢力拡大のための手段として、奥羽の地頭たちは朝廷や幕府に働きかけ、「陸奥守護」や「秋田城介」などの官職を得ていくが、当然それは実態とは別物である。

伊達市の霊山城には、「国司沢」や「国司池」といった名称が残る。このような地名の分布は、「国府」と無関係ではないが、直接的に国府の存在を示すものではなく、その時代状況を見定めながら考えなければならないと思う。

私は、この霊山城の地の他に、福島県信夫郡に「国府」に関する地名があるかどうかについては不勉強で知らないが、福島の地にそれらが多くあるのだとすれば、それは、藤原秀衡の居館を「御所」と称したように、「陸奥守」藤原秀衡にしたがっていた信夫庄司佐藤基治に関わるものか、霊山城の国司の北畠氏に関わるものか、もしくは、戦国期にその官職と政略結婚により勢力を拡大しようとた伊達稙宗に関わるものと考えられる。