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土湯峠は、標高1,240mの、吾妻連峰と安達太良連峰との鞍部にある。寛文9年(1669)、会津藩は物資を福島から阿武隈川の水運を利用し、江戸や大坂に送るため、福島と会津を結ぶ最短コースとしてこの峠越えのルートを改修した。

明治12年(1879)に里道一等に指定され、昭和4年(1929)に福島県道に編入された。その後昭和34年(1959)に磐梯吾妻道路が開通し、昭和37年(1962)には国道115号となった。

平成元年(1989)に土湯トンネルを含む土湯バイパスが開通し、現在の峠は、観光道路のスカイラインに抜ける観光ルートとして利用されている。

スカイラインは、全長28.7km、平均標高1,350mで、奥羽山脈の主峰のひとつ吾妻連峰を縫うように走る。磐梯吾妻スカイラインは、高湯温泉から吾妻小富士を通り、土湯峠までの山岳観光有料道路である。浄土平周辺の荒涼とした火山性の景観と紅葉のコントラストは特に見事で、「日本の道100選」にも選ばれている。

この現在の国道115号の土湯峠周辺は、その後の戊辰東北戦争の始まりともいえる地で、仙台藩や米沢藩、会津藩などが、なんとか内戦を回避しようとしながらの虚々実々のものだったようだ。しかし、結局は、土湯峠の戦いは、皮肉にも戊辰東北戦争のはじまりとなった。

慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見の戦いでは、錦の御旗を掲げた薩摩、長州藩兵を中心とした新政府軍が幕府軍を圧倒し、4月には江戸城は開城した。しかし東北地方の戊辰戦争は、これは始まりにすぎなかった。

この時期の、新政府の東北諸藩に対する対応は厳しいものだった。会津藩は、京都守護職及び京都所司代として京都の治安を担当し、京都見廻組及び新撰組による尊王攘夷派の弾圧を行ったことは、特に長州藩のうらみを買っていた。また、薩摩藩邸を焼打ちし、薩摩浪士を討伐した庄内藩は、薩摩藩からの恨みをかっていた。このため、会津藩と庄内藩は、新政府軍との戦闘を見越し同盟を結んでいた。しかし仙台藩は、アジアの植民地化を進める列強諸国が看視している中での内戦は避けるべきとの考えから、戦争の回避に奔走していた。

新政府は、仙台藩、米沢藩をはじめとする東北地方の諸藩に会津藩追討を命じ、鎮撫使と新政府軍部隊を仙台に派遣した。しかしこの間も、仙台藩は米沢藩等とともに七ヶ宿などで密談を重ね、会津藩と接触を保ち穏便な解決を模索していたが、新政府は、仙台藩に対し強硬に会津出兵を迫り、これに仙台藩は会津に謝罪させようとしたが果たせず、仙台藩は会津藩境に出兵した。

福島市土湯から鬼面山に差し掛かる手前に「小峠」があり、この峠で慶応元年(1865)4月に、仙台藩の瀬上主膳率いる藩兵800名と、筑州藩50名を加えた850名の兵がこの地に陣を築き、大峠の山頂で待ち構える会津藩と交戦した。

しかし、実際にはこの戦いは両軍の指揮官同士が密議を行い、新政府軍を欺くための虚偽の戦いだったという。この間も、仙台藩、米沢藩等は会津藩の赦免に動いており、会津藩と接触をもち、謝罪嘆願の内容について検討を重ねていた。このため、両軍とも戦意は低く、空砲を撃ち合っただけで、1人の死傷者もなかったと云う。

その後、会津藩は一旦は恭順降伏を認めたものの、武装解除での恭順は拒否し、また奥羽列藩の、会津藩、庄内藩赦免の嘆願書を奥羽鎮撫総督に提出したが却下された。また、奥羽鎮撫総督府下参謀の世良修蔵の密書が、仙台藩士瀬上主膳や姉歯武之進らの手に渡り、その中の「奥羽皆敵」の文面を見て激昂した彼らは、現在の福島市の金沢屋において世良修蔵を襲撃し処刑した。これにより、奥羽の地は一気に東北戦争へとなだれ込んでいく。