山形県米沢市入田沢

震災前取材

 

大荒山不動尊は、大同3年(808)、弘法大師が湯殿山を開山した折に、最上川をさかのぼり、鬼面川を渡り、川沿いの道を進み、口田沢の地に入り、広寿法印の建立した堂で露をしのいだ。

大師は広寿坊にいろいろの物語をし、広寿坊は大師の話に感銘し弟子になった。

大師は白岩明神を伏し拝み、さらに先に進み、大荒沢に着いたときには、日はすでに西の山に没していたので、大師は黒森の大樹の下で一夜を明かした。

翌日、黒森の山に登り、山上から眺め、この地が霊地であることを喜び、山頂で護摩を二十一箇座を修した。護摩行を終えて、この地の石宮に不動尊を拝し、さらに沢に深く入り、奥の院大滝に霊場を開いたと云う。

現在の堂は、嘉永6年(1853)、3年を要して完成したもので、二十四孝の物語などの彫刻が施されている。

その後明治32年(1899)には長床が、明治40年(1907)には仁王門が建てられた。

 

この不動尊には、次のような伝説が残っている。

昔、白夫平に、「三十郎」というものがいた。三十郎は生まれつき体が弱く、どうにかして人並みの体になりたいと思っていた。

三十郎の住む集落には、「番持石」という二十五貫目ほどの大きな石があり、村の若者たちは、それを動かすことを休日の遊びとしていた。

しかし、三十郎には、この番持石を動かすことはできなかった。三十郎は、人のいない夜や朝早くに、番持石にすがり動かそうとしたが石を動かすことはできずくやしい思いをしていた。

ある日三十郎は、お不動様にすがり、神様に力を貸してもらうしかないと考え、二十一日の丑の刻参り、無言の行を祈願することにした。

一週間目、三十郎がお不動様に行き柏手を打って祈っていると、神様の心ためしか 、お堂が傾いてきた。三十郎はそれを元通りにしお滝参りに行った。ある時は大きな牛が道に寝ていたり、その他にも三十郎には様々な試練があたえられた。

そして満願の日、一心に祈っていると、「三十郎」とお不動様に一声呼ばれた。咄嗟のことに三十郎はうっかり「はい」と返事をしてしまった。そのため、三十郎はすべての力を授かることはできなかったが、それでも「倍力の力」を得ることができたと云う。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です