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宮城県大崎市岩出山下一栗字宿裏

震災前取材

室町時代末期に、奥州探題大崎氏家臣の一栗兵部隆春が築いて居城としたと伝えられる。東西約600m、南北約400mの範囲に、中館(本丸)、東館、小館、西館が馬蹄形状に配置され、それぞれが深い谷や断崖を防備に利用している。

中館には一栗兵部、東館には兵部の家臣の千田雅楽之丞、小館には家臣の半田土佐守、西館には兵部の祖父の一栗放牛が居住していた。しかし天正18年(1590)の奥州仕置きにより大崎氏は滅亡し、一栗城も廃城となった。

天正19年(1591)、この地に秀吉から配された木村吉清の暴政に反発した葛西、大崎の旧家臣らは一揆を起こした。これに対して蒲生氏郷と伊達政宗が一揆の鎮圧にあたった。

一栗兵部は初め、自らの居城であるこの一栗城に二百数十名の郎党とともに立て篭り、各地の一揆を鎮圧しつつ北上する政宗を迎え撃とうと待ち構えていた。しかし政宗は一栗城には目もくれず、東の栗原郡に向かって兵を進めた。これは、一栗氏は大崎家中では親伊達派であったため、政宗はあえて見逃したともいわれているが、一栗兵部は「小城ゆえに無視された」と怒り、郎党を引き連れ政宗の最終攻撃目標である佐沼城へ入った。

佐沼城における兵部の活躍は目をみはるもので、大薙刀を車輪の如く振るい伊達勢を打ち倒したと言う。この戦の最中、伊達軍に矢文が打ち込まれ、これには

「伊達どのは、木の葉猿にも劣りたり、一つ栗をば落とし得ざれば」

と書いてあったという。政宗は家臣からこの文を受け取ると、

「よそにのみ、見れば木の間の一つ栗、終には猿の餌食なるべし」

という反歌を書き送ったという。

また、兵部の祖父である一栗放牛も郎党ともに佐沼城に入り壮絶な討ち死にをした。放牛は、若いころは大崎家中きっての剛の者として知られていたが、このとき92歳であったという。

一栗兵部は落城寸前にからくも城から脱して出羽に落ちのび、最上義光に仕え、鶴岡城番となったが、慶長19年(1614)に謀叛を起こして誅殺されたと伝えられる。

その後この地は伊達氏の支配するところとなり、江戸時代には、大崎氏の元家臣の四釜氏が居住した。