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宮城県岩沼市下野郷字北長沼

震災前取材

現在の仙台空港は、かつては矢ノ目飛行場と呼ばれ、昭和15年(1940)、旧日本陸軍により、熊谷陸軍飛行学校増田分校教育隊の基地として、学徒動員で建設された。昭和17年(1942)から、飛行部隊104部隊が駐在していたが、昭和20年(1945)7月10日の仙台大空襲の翌日、矢ノ目飛行場も空襲を受けた。

同年、日本の敗戦によりアメリカ軍に接収されたが、接収される前に、この矢ノ目飛行場から「隼戦闘機」が運び出され、名取市の山中に隠され後に発見された。

昭和31年(1956)アメリカ軍より返還され、自衛隊と運輸省とが共同使用していたが、昭和47年(1964)自衛隊が移転し、滑走路、ターミナルビル、アクセス鉄道が整備され、現在は「仙台空港」として、名実ともに東北の空の玄関となっている。

 

・吉川団十郎さんの「宮城の団十郎HP」より

この「矢ノ目飛行場」近くにお住まいだったらしい「ああ宮城県」のヒット曲を出し、現在陶芸家として活躍している吉川団十郎氏が、ご自分のHPに「矢ノ目飛行場」の思い出を書いておられます。

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子供の頃あこがれていた飛行機が アメリカの双胴機 “ P-38 ” だった。その、カッコイ P-38が、ときたま矢ノ目飛行場へ飛んで来た。僕達が外で遊んでいると、「ブ~ン」とプロペラ音を轟かせ上空に現れる。 そんな時は、オラが隊長になって、大沼二等兵さ「打で-!」って命令するんだ。とぬかぐ興奮すたもんだった。

ところで、ある日の事、相変わらず大沼君と外で遊んでいると、上空に自衛隊の練習機 “T-6 ”が現われた。いつもの如く、オラと大沼二等兵は腹ばいになって、その飛行機めがけて機関銃の音まねをした。「ダダダダダダダー」 するとどうでしょう。何となく飛行機が低空飛行になって去って行った。 オラは大沼君に「敵機、 1機撃墜!」と報告をした。そして戦争ゴッコを止めた。今度は、二人で “四葉のクローバー ”を探して遊んだ。

次の日、朝刊を見て驚く。次のように載っていた。 「昨日、矢ノ目飛行場の練習機。エンジントラブルの為、田んぼに不時着!」 こんな事、あっていいんだろうか・・・。

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関連動画:

1 thought on “旧矢ノ目飛行場

  1. 最近、10年前に102才でこの世を去った父のことが思い出され、70年ぶりに岩沼市二ノ倉に行ってきました。
    父は職業軍人で、戦時中は矢ノ目飛行場で操縦士養成の教官をやっていました。
    敗戦で職を失い、家族を養うために近くの二ノ倉の浜で塩作りしていて、時々、私も仕事場に行って遊んでいました。
    このことはすっかり忘れていましたが、何故かもう一度あの場所に行きたくなり先週、東京からはるばる訪ねてみました。
    6年前の東日本大震災でもう昔の面影は無いのは分かっていましたが、高い防潮堤を越えると海にはテトラポットがびっしり敷き詰め
    られ、高い波が押し寄せていて全く砂浜はありませんでした。

    終戦後、矢ノ目飛行場でなぜか無事だった戦闘機に地上で乗せてもらい、エンジンのブンブンと鳴る音が今でも記憶に残っています。

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