宮城県石巻市須江細田

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この地は、天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥州仕置軍と葛西軍が戦った深谷の役の古戦場である。

葛西氏は小田原陣に参陣することができず、所領没収となった。これは、葛西氏家臣団の中で抗争が絶えず、その鎮圧のために機を逸したとされている。また、先進的外交を欠き、名家としてのプライドが判断の甘さを招いたともされる。

同年7月、小田原が降伏開城するとすぐに、豊臣秀吉は、伊達政宗を案内とし、蒲生氏郷と木村吉清の軍を葛西、大崎に向かわせた。このときの蒲生、木村の両軍を合わせて2万もいなかったと思われるが、葛西氏家中も、小田原における豊臣軍の圧倒的な力を知り和戦両論、混乱の極みの中で、6千ほどの動員ではなかったかと推測できる。

葛西勢は現在の石巻市和渕に800、その北側の中津山に1700、栗原市高清水に1500を配した。葛西中津山勢1700は旧北上川を前に、神取山城に陣を敷き、葛西和渕勢は、糠塚あたりの高台に陣を敷いたのだろう。

これを木村吉清勢が攻撃した。葛西勢は多勢に無勢、大将はじめ諸将が討ち死にして葛西和渕勢は潰走した。 葛西中津山勢は木村勢を背後から攻撃し激戦となったが、蒲生勢から攻撃されて潰走した。葛西晴信は残余の軍を佐沼城(異説あり)に集め篭城したが衆寡敵せず敗れた。

大崎、葛西領には木村吉清が入り、早速刀狩と検地を行った。多くの大崎、葛西の旧臣たちは、戦わずして野に下っている。木村吉清にしてみれば刀狩は急務であり、強引にこれを進めた。また木村吉清の家臣は急な召し抱えの者が多かったこともあり、その手段は強圧的であり、その暴政に対し、その年の10月には一揆が起きた。

木村吉清父子は佐沼城に逃げ込み、蒲生氏郷と伊達政宗は豊臣秀吉からこれを救出するように命じられるが、ここで伊達政宗が一揆勢と通じているという疑惑が蒲生氏郷から秀吉にもたらされる。

奥州仕置の直前には、南奥羽をほぼ手中にしていた伊達氏は葛西大崎の盟主的立場になりつつあった。この一揆勢から何らかの働きかけがあったであろうし、これを期に、伊達を中心とし、葛西、大崎を束ねようと思ったとしても不思議ではない。これが、葛西、大崎の一揆を影で扇動したという疑惑をもたれたのだろう。

なんとかその疑惑を表面的には晴らしたが、秀吉は政宗を疑っていた。秀吉は政宗に一揆の鎮圧を命じ、政宗は本領の地を召し上げられ、葛西、大崎の旧領をあてがわれた。

天正19年(1591)、本領を召上げられる伊達勢は全力で一揆勢の鎮圧を始めた。旧大崎家臣の篭る城館を次々に落とし、同年7月、葛西、大崎の旧臣たちが最後の抵抗で篭った佐沼城を囲んだ。最後まで抵抗を続けた2500は撫で斬りにされた。

残党狩りも熾烈をきわめた。同年8月には、この近くの、須江糠塚で、多数の一揆物頭衆が謀殺された。須江山の惨劇である。ここに大崎、葛西氏は完全に息の根を止められた。

殿入沢は葛西の首領たちが自害したところと言われ、細田山碑は、葛西残党に討たれた木村重景の墓と伝えられている。他に、軍陣橋跡、新左衛門塚などがあり、大正3年(1914)、大槻文彦博士が遠祖の冥福を祈って建てた大槻但馬守の碑がある。

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