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宮城県大崎市鳴子温泉鬼首

震災前取材

奥六郡を治めていた安部頼良は、奥六郡を超えて栗原、玉造、賀美郡にまでその勢力を拡張しはじめ、「貢賦を輸せず、徭役を勤めず、代々驕奢振る舞い・・・・」となり 、朝廷は遂に国司藤原登任にこの討伐を命じた。安倍頼良は鬼切部を戦場として戦い、朝廷の軍は各地で敗れ、登任は都に逃げ帰った。

これに驚いた朝廷は、源頼義を陸奥守鎮守府将軍として派遣し、頼義はその子源義家に 、安部頼良の子の安部貞任、宗任の守る鬼切部を攻めさせた。源義家は、花淵山から攻め、矢館の柵を落とし鬼切部城に安倍一族を敗走させたと伝える。

「矢館の柵」がどこだったのかは現在定かではないが、この矢楯岳(標高866m)の付近だったろうと考えられている。恐らくは、矢楯岳の麓の旧道をかためる位置にあったものと考えられる。