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宮城県大崎市松山千石字大欅…石雲寺

震災前取材

茂庭家霊屋は、近世松山郷の領主茂庭氏の廟で、石雲寺の境内にあり、当初は「御影堂」と呼ばれていた。この廟は、初代良元(綱元)、二代定元、三代姓元の三代一堂として建てられた。

建物は素木造、方三間、宝形造、茅葺で、全般的に質素な造りながら雅趣に富んだ霊屋建築である。堂内はウグイス張りの床板敷きで、正面奥の壇には、良直、綱元、良元、定元、升元と、綱元妻、良元妻、定元妻の八体の彩色座像が、伊達、茂庭家代々の位牌とともに安置されている。

茂庭家初代、茂庭良元から十二代孝元までの当主、及び妻の墓は、伊達家の葬法に則り墓石が配されている。

初代良元から三代姓元までの妻の墓は、当主と同じ寺や墓域に配置することが許されず、そのために当主の墓は茂庭家霊屋の下にあり、妻の墓石は別の位置に配されている。

伊達家五代吉村の時代からは伊達家の葬法が変わり、同じ墓域に、当主と妻の墓が並列して配置されるようになり、茂庭家も四代崇元から十二代孝元まではそれにならった。

茂庭氏は、源平合戦に平家方の武将として白髪を染めて出陣したことで有名な斎藤別当実盛の後裔と伝えられる。山城国に住んでいた実盛の後裔実良は奥州へ移り、伊達家初代の朝宗に仕え、伊達郡茂庭村を領して鬼庭と称した。以後、代々伊達氏に仕えて戦国時代に至った。

戦国時代の当主は鬼庭左月良直で、伊達輝宗の命により父祖の地である茂庭村から出羽の長井に移り住んだ。良直の名を後世に伝えたのが、天正13年(1585)、伊達政宗が佐竹・葦名氏ら反伊達連合軍と戦った人取橋の合戦である。

この戦いは、佐竹・葦名氏らの連合軍三万余騎に対して伊達軍は八千余という劣勢で対峙した。良直は政宗より指揮を命じられ、金色采幣を賜って合戦に臨んだ。伊達勢劣勢の中で、良直は伊達軍の殿として力戦、このとき、良直は老齢のため甲胄を着けるに耐えず、黄綿の帽子を着けて戦い討ち死にした。

その後、綱元のときに、豊臣秀吉から「茂庭」の姓を賜ったと言う。