宮城県岩沼市下野郷字舘外

 

別称:矢野目足軽屋敷

初め奥山民部という者が住していたが、伊達氏に滅ぼされたとされる。その後慶長6年(1601)、伊達氏が岩出山城から仙台城へ居城を移した際、伊達氏直属の鉄砲足軽である矢野目足軽が当地に館を構えた。

矢野目足軽は、初め米沢城下の矢野目(現在の米沢市窪田)に居住していたが、天正19年(1590)、伊達政宗が豊臣秀吉より岩出山城への所替えを命ぜられた際、従者として岩出山へ移住し、その後さらに当地へと移った。矢野目足軽は当初230人で組織されていたが、享保7年(1722)、柴田郡川崎の伊達織部に30名、桃生郡寺崎の黒沢要人に20名が預足軽として移された。以来180名の足軽を、18名一組として十組の大番隊に属させ、一番方から十番方に分けて各番方に番頭を置き、その上の大番方が全体を統率した。

矢野目足軽がこの地に置かれたのは、足軽とはいえ伊達氏直参として政宗の信望が厚かったため、海防の任に当たるという重要な役割を命ぜられたからである。

明治2年(1869)、幕藩体制が終わりを告げると永の暇を賜り卒族となり、翌明治3年に帰農を命ぜられた。その後当地を離れる者も出て明治5年(1872)には156人となった。館跡の周囲には水掘が今も残り、一番方から十番方という隊号は現在も地名として残っている。

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