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宮城県岩沼市栄町一丁目

  別名:岩沼城、岩沼要害、武隈館 古くは、平安時代の中期、三十六歌仙の一人の源重之朝臣が、陸奥守藤原実方に従って陸奥国に下向した時に築いた館が最初と伝えられる。その後、源満仲、藤原元良等がこの館に居した。それ以降、天正の時代まで誰がいたかは定かではない。 城館として整備は、天正10年代(1582~1592)、伊達政宗の家臣の泉田重光によって行われたと推定される。泉田氏のあと、遠藤、屋代、奥山、伊達宗勝(兵部、政宗の末子)、古内の各氏を経て、万治3年(1660)、二代藩主伊達忠宗の三男で田村家の名跡を継いだ田村宗良が、四代藩主伊達綱村の補佐を命じられ三万石で岩沼に入った。その後、天和元年(1681)田村氏の一関移封により、古内氏が入り以後代々古内氏が在城し明治に到る。 鵜ヶ崎城跡の標柱は現在岩沼駅の西側の鵜ヶ崎公園にある。中世から江戸時代初期は、この鵜ヶ崎公園の高台を中心とした平山城であったと思われるが、その後近世に入ってからは、治世の城として城域は東側に拡大し、現在の岩沼駅の位置に主館があり、周囲を沼と水堀で囲まれた平城となったようだ。 現在、鵜ヶ崎公園に僅かに城としての地形が残っているが、それ以外に遺構らしきものは見つけられない。