宮城県登米市東和町米谷字越路…東陽寺

震災前取材

 

スポンサーリンク

 

仙台藩の伊達騒動の中心人物のひとりである原田甲斐宗輔の墓がこの東陽寺にある。当時は逆臣として死んだため密かに葬られ、その事実も伏せられていた。本堂の裏の池の畔にあるイチョウの木の下にある石が原田甲斐の墓石である。

仙台三代藩主の伊達綱宗は放蕩を理由に、21歳で強制的に隠居させられた。その跡を継いだのは、2歳の伊達綱村だった。綱村が藩主になると、大叔父にあたる伊達兵部宗勝(政宗の10男)が後見として実権を掌握した。宗勝は家老の原田甲斐宗輔らと藩権力の集権化を行い、他の伊達安芸宗重らの伊達氏一門と対立した。

先代の綱宗の時代から続く家臣団の対立や大叔父の伊達兵部の専横などが続き、伊達氏の家中は混乱していた。幼い藩主の伊達綱村自身が何者かの手によって毒殺されかけたこともあった。

このような時期に、一門の伊達安芸と伊達兵部の甥に所領紛争が起きた。伊達安芸は幕府に一件を上訴する。もちろんこの所領紛争は伊達家中の騒動の一端であり、根は深かった。

寛文11年(1671)3月、騒動の裁判を行うため大老の酒井忠清邸に原田甲斐や伊達安芸ら関係者が召喚された。原田甲斐はその場で伊達安芸に斬りかかって殺害する。だが、原田甲斐も安芸派の柴田外記朝意と斬りあいになり、原田甲斐は柴田外記によって斬り殺され、柴田外記もその日のうちに原田甲斐からの傷が元で死亡した。

結局、関係者の殆どが死亡し、真実は闇の中に葬られ、事後処理では原田家や兵部派が処罰されたが、結果として藩主が幼かったために幕府の裁定ではお咎めなしとなり、伊達家は守られる事となった。

この事件は歌舞伎『伽羅先代萩』や、山本周五郎の小説『樅ノ木は残った』などの題材となる。

東陽寺は原田氏の菩提寺で、原田氏が断絶の後に船岡からこの地に移った。原田甲斐の遺体は、江戸芝山の良源院に葬られたが、首だけは密かに船岡にあった東陽寺に運ばれた。東陽寺がこの地に移る際には、梵鐘に首桶を隠して密送され、埋葬され、銀杏を目印にしたという。

延安5年(1677)、原田甲斐の七回忌に遺臣139名が密かに集まり法要を営み、逆心の汚名を受けた主の孤忠を偲び、追福を催したと伝える。

 

・米谷の清水

イチョウの隣に、小さな泉があり、この清水からは米が湧き出たと云う。昔、修行をしていた僧がこの清水から湧き出でた米を食し命をつないだとされる。このことから、古くは「前谷」だった地名が「米谷」になったと伝えられる。

また、清水の脇には小規模な鍾乳洞がある。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です