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宮城県栗原市一迫真坂清水運南下
震災前取材
仙台藩一門の清水邑主の岩城長次郎政隆の嫡子国隆が、元和元年(1615)に、岩城家の氏神として勧請したもの。
その後、万治2年(1616)、宗規(むねすけ)が、岩手県の岩谷堂に移封になるまでの44年間、岩城家の崇敬を受け、その後は真坂村の村民の崇敬を得て現在に伝えられている。
岩城氏は、伊達政宗の祖母で、晴宗の室の久保姫の実家にあたる。岩城氏は、天正15年()頃は、大勢力の伊達氏と佐竹氏の間にあったが、岩城政隆の父の常隆は、豊臣秀吉の小田原攻めに病をおして参陣し所領は安堵された。しかし小田原開城の半月後、相模で24歳の若さで病死した。
秀吉は、豊臣に近い佐竹義重の三男貞隆に岩城氏を継がせ、幼少であることを理由に政隆は退けられた。その後の関ヶ原の戦いの際に、佐竹氏とともに日和見にまわった岩城氏は所領を没収され、佐竹氏とともに秋田に移った。
慶長12年(1607)、政隆は母と共に仙台に来て伊達政宗に謁見した。政宗は、幼少時に岩城家出身の祖母の久保姫に守り育てられてきた恩義からだろうか、政隆を厚遇し、この地に知行を与え、後に伊達姓を許し一門に列した。