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宮城県塩竃市浦戸寒風沢

震災前取材

慶応3年(1867)、仙台藩では寒風沢港を海防上最も重要な地点として、寒風沢、石浜水道がよく俯瞰できるこの地に砲台を築造した。

「加納砲」3門を据え、弾薬庫、見張り所を備え、また沖砲台として舟入島には鉄の大巨砲2門を置き、別に石浜崎黒森に1門を据え、藩より大砲方士卒50人余りが島内寺院の松林院に駐屯して警備にあたった。

しかし、この年の10月には徳川慶喜は大政奉還を行い、翌年1月には鳥羽伏見の戦いで幕府軍は破れ慶喜は謹慎した。同年8月には、榎本武揚や土方歳三ら、3000人の将兵の乗る幕府艦隊が石浜水道に投錨し 、10月に蝦夷地へ向かって出航していった。また、翌明治2年(1869)3月には榎本艦隊を追う官軍の海軍8隻が石浜、寒風沢水道に入ったが、どちらにもこの砲台が火を吹くことはなかった。