宮城県石巻市住吉町二丁目

 

戊辰戦争の折に、土方歳三や榎本武揚、星恂太郎達の宿舎になった豪商の屋敷。中の柱には刀傷が残っていて「土方歳三の刀傷」と伝えられている。

毛利家は、代々住吉米蔵の蔵守を勤めており、この旧毛利屋敷は、今からおよそ130年以上前に建てられたと推定される。建物は1部2階建で、特に2階部分は床の間、違い棚、天袋があり、面皮柱や面皮押等の高級建材が使用されている。特に2階部分は床の間、違い棚、天袋があり、面皮柱や面皮押等の高級建 戊辰戦争の折に、土方歳三や榎本武揚、星恂太郎達の宿舎になった豪商の屋敷。中の柱には刀傷が残っていて「土方歳三の刀傷」と伝えられている。

明治維新のとき、榎本武揚を筆頭とする旧幕府軍は、軍艦「開陽」以下7隻で寒風沢に集結、その後折浜に停泊して石巻にも上陸した。仙台藩は旧幕府軍側として奥羽越列藩同盟の盟主的立場にあった。

榎本武揚の率いる旧幕府軍艦隊が仙台藩に入ってから、新政府軍は北進しており、その中で仙台藩は9月13日降伏恭順を決定した。しかし星恂太郎は9月15日、額兵隊を率いて養賢堂を出陣していた。

8月26日  榎本武揚艦隊の軍艦開陽松島に到着

9月 3日  列藩同盟仙台青葉城で榎本武揚は主戦論を展開

9月15日  仙台藩新政府軍に降伏

9月22日  会津藩新政府軍に降伏開城

9月25日  長岡藩新政府軍に降伏

10月10日  盛岡藩新政府軍に降伏

石巻は一触即発の危機を迎えていた。そのような中で、仙台藩士細谷十太夫直英は、当時毛利家当主毛利理惣治と共に榎本武揚に対し大量の物資や食料を調達した。

細谷直英は、石巻の鋳銭場の役人で、50石取りの下級武士であったが、侠客、農民、博徒、猟師等57名を集め衝撃隊を編成して指揮、連戦連勝していた。その功により小姓頭に抜擢され、200石を加増され副参謀となっていた。

おそらく、細谷直英は仙台領で新政府軍と戦うことの不利を榎本らに説き、それは結果として降伏した仙台藩にとっても利があることで、仙台藩から大量の軍事物資を引き出したのだろう。榎本武揚等は、明治元年(1869)10月12日折浜を出航し、北海道へと向った。この毛利屋敷の二階に残る土方歳三の刀傷は、そのような緊迫した状況の中で付けられたものと思われる。

星恂太郎は額兵隊250人とともに函館に渡り、函館戦争を最後まで戦い抜いた。その後北海道開拓使として北海道の開拓に、また製塩事業に従事したが、その業績は芳しくなく、職を辞して仙台に戻るが、37歳の若さで没した。

細谷十太夫直英は、仙台藩から衝撃隊を解散させられ、その姿をくらました。明治3年(1872)、政府から一切赦免が告知されると、北海道に渡り開拓使となった。その後西南戦争に志願し、日清戦争にも従軍し、満州、台湾で戦った。日清戦争後仏門に入り、 仙台の竜雲院住職になり、敬慕していた林子平の墓を守る。明治40年(1907)63歳で没した。

 

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