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宮城県石巻市吉野町一丁目…多福院

震災前取材

多福院の本堂裏に、「吉野先帝菩提碑」がある。吉野先帝とは、後醍醐天皇(在位1288~1339)のことで、この地を治めていた南朝方の葛西清貞が、天皇の崩御を知り建立したといわれている。

高さ約1.5m、幅約70cm稲井石で、碑文は

「(梵字)奉為/吉野先帝御菩提也/延元二二己卯(1339)年霜月(11月)二十四日敬白」

とあり、『延元』は南朝(吉野朝)の年号である。

藩政時代には、仙台藩主参拝の際は門前で下乗し、僧侶は当日限り着座扱いと伝えられており、大塔宮護良親王陣中守本尊とされる大日如来像が寺に収められている。

足利尊氏と対立する後醍醐天皇は、多賀国府に義良親王、北畠顕家らを入部させた。これに葛西清貞は南朝方として応じ、登米の寺池を弟の高清に与え、自身は多賀国府に近い石巻日和山城に入った。

この時期、中千代の乱が起き、足利尊氏は鎌倉に下り、そのまま鎌倉に居座り、ついに後醍醐天皇に反旗を翻した。このため、後醍醐天皇は北畠顕家に尊氏追討の命令を下し、建武2年(1335)の暮れ、北畠顕家は奥州勢を率いて多賀城を出発して西征の途についた。

この軍には、葛西清貞も高清もともに加わり、京都に攻め上り奥州軍は尊氏軍を九州へ追い払い、京都を制圧した。

その後、奥州は北朝方が優勢となり、北畠顕家は国府を出て伊達郡の霊山に移った。そして、建武4年 (1337)、ふたたび西征の途につき、葛西清貞はこの西征にも加わった。しかし和泉国石津の戦いで敗れ、北畠顕家をはじめ多くの諸将士が戦死し、奥州軍は敗北し、寺池の葛西高清は足利尊氏に降伏した。

その後も奥州においては南朝方と北朝方との戦乱は続いたが、石巻葛西清貞は一貫して南朝方であったようだが、奥州南朝勢力は衰退の一途をたどり、葛西の本流は寺池葛西に移っていく。