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宮城県登米市石越町北郷
震災前取材
この地の遠流志別(おるしべつ)石神社は、栗原七座の一つといわれ、古くから石神様と呼ばれ、広く信仰を集め崇拝されてきた。
景行天皇の皇子の日本武尊命が、東征に際し、伊勢の御姨倭姫命(おばやまとひめのみこと)が天照皇大神より伝わる明玉を日本武尊に「これを頭上に戴き赴くべし」と授けた。
やがて、東国を平定するに及び、明玉は霊石と化しこの地に祀った。この霊石は子石を産み、50の数に分かれ、このため、この地は「石子石」の里と呼ばれるようになり、後に「石越」となった。
遠流志別=オルシベツとは、アイヌ語で大きな川の流れの側を意味しており、古代の石越丘陵の北西部には迫川が蛇行していた。
この地は、霊亀元年(715)頃は、蝦夷の長のオルシベツの君宇蘇弥奈(うそみな)が治めていたが、朝廷に願い出てこの地を離れ移住したが、石神社はその後もこの地の信仰を集めていた。
しかし、文治年間(1185~90)には社殿も荒廃し、伝承の文書も失い石神明神と称していたが、安永年間(1772~81)仙台藩の儒者の田辺希元の調査により、遠流志別石神社であることが判明し、天明6年(1786)小野寺某により社殿が再建され、文化元年(1804)には拝殿が造営されたと伝えられる。