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宮城県松島町幡谷

震災前取材

 

この地の北側の、現在の大崎市鹿島台の地には、江戸時代初期まで、品井沼とそれを取り 巻く広大な湿地帯があった。大雨が降ると鳴瀬川は逆流し、沼地を形成していた。品井沼周辺は、見わたす限りの沼地で、吸いこまれるような神秘境を形成していた。

元禄6年(1693)、仙台藩は、品井沼の水を松島湾に排水し、鳴瀬川の逆水を防ぎ、新たに新田を開くことを目的とし、大越喜右衛門を総指揮に潜穴工事が始まった。

工事は、穴頭と穴尻の二地点を結んだ線上に、まず竪穴を十ヶ所掘り、次に各竪穴の底から横穴を掘って連結する方法をとった。土砂や岩石は、「ずり出し穴」と呼ばれる竪穴から運び出した。

この竪穴は、その後の潜穴の改修工事においても使用され、土砂や草木など内部にたまったものは、この「ずり出し穴」からさらいあげられた。竪穴の上部には、沢水が流れ込んだり崩れないように、天じょうの穴のまわりに土を積んで囲められた。

この潜穴工事により、湿地帯の一部は新田となったが、その後も鹿島台の地は度々水害に襲われ、この工事は、昭和に至るまでの長い水との闘いの始まりでしかなかった。