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宮城県気仙沼市川原崎…宝鏡寺境内

2011/12/06取材

この宝鏡寺には、熊谷次郎直実の供養碑と伝えられる板碑がある。

この気仙沼には、一の谷の合戦で平敦盛を討った熊谷次郎直実の嫡子の直家が、文治5年(1189)源頼朝の奥州合戦での功により、本良庄の地頭職に補任され、その子直宗が赤岩館を中心に気仙沼地方を支配した。

熊谷氏は、桓武平氏北条直方の後裔を称し、武蔵の大里郡熊谷を領し熊谷を称したことに始まるとされる(異説あり)。直実は、石橋山の合戦では源頼朝を攻めたが、のち源頼朝に従い平家追討に功をたて本領を安堵された。

源平合戦の際の寿永3年(1184)、一ノ谷の戦いに参加、源義経に従い鵯越を逆落としに下り、息子小次郎直家と郎党一人の三人組で平家の陣に一番乗りで突入する大功を挙げた。

『平家物語』によれば、この戦いで良き敵を探し求めていた直実は、波打ちぎわを逃げようとしていた平家の貴公子平敦盛を呼び止め一騎打ちとなった。直実は敦盛と馬上で取り組み、馬から落とし首を取ろうとすると、ちょうど我が子ぐらいの年の若武者だった。直実が名乗り「あなたさまはどなたか」と問うと、敦盛は「首を獲れば分かることだ」と答えた。直実は敦盛を逃がそうとしたが、背後に味方が迫り、「同じことならこの直実が手にかけ、後世のお供養をいたしましょう」といって、泣く泣くその首を切ったと云う。

直実は、敦盛を討ったことに対する慙愧の念と、その後の御家人同士の勢力争いなどで世の無常を感じ、家督を嫡子直家に譲り、建久4年(1193)頃、法然の弟子となり出家した。出家後は法力房蓮生を名乗り、法然から1日6万遍の念仏を勧められ、蓮生はそれを守り通したと云う。また、京都から関東にもどるとき、西を背にすると、浄土の阿弥陀仏に背を向けることになるとし、鞍を前後さかさまにおき、西に背を向けずに関東に下ったという。

蓮生は鎌倉に着くと、頼朝と対面し泣いて懐かしみ、仏法と兵法の故実を語り、周囲を感歎させたと云う。頼朝の妻の北条政子とも昵懇で、書簡等を取り交わしている。頼朝にしきりに引き留められたがそれを辞し武蔵国へ下向し、その後は各地に寺を建て、元久元年(1204)早く仏と成り、この世に再び還り来て、有縁の者無縁の者問わず救い弔いたいと阿弥陀仏に誓い往生したと伝える。