岩手県一関市川崎町薄衣字古館

2011/12/06取材

 

薄衣城は北上川の左岸から、西に張り出した比高約60mの丘陵先端に築かれている。丘陵部の西側は北上川に落ち込む崖で、北側、南側も急峻な崖に面している。東側は、丘陵続きの鞍部を自然の空堀としている。全体の規模は東西約300m、南北約250mほどで、頂部の主郭を中心に、西側に二ノ郭、東側に三ノ郭、四ノ郭が配され、南側斜面には数段の帯郭が見られる。主郭と三ノ郭間は、幅約10mの空堀で区画されている。また、二ノ郭の中央付近には櫓台を設けていたと思われる長大な土壇が築かれている。

この地は、北上川を臨む要地になっており、また千厩街道が通る交通の要衝でもある。軍事的な機能を併せ持った在地領主の居館を含む城館だったと考えられる。

建長5年(1253)、千葉胤堅によって築かれたと伝えられる。以後、薄衣氏を称し、在地勢力に成長した。南北朝期には当初は南朝方に与していたが、暦応2年(1339)、薄衣清村は北朝方の葛西高清に敗れ降伏し、薄衣氏は葛西氏の支配下に組み込まれた。

延徳3年(1491)、黄海氏と岩淵氏が争った際に仲裁に入り、抗争を落着させたようで、葛西氏に臣従していたとはいえ、この地では一定の勢力を維持していたようだ。

明応7年(1498)、大崎氏重臣の氏家三河父子が、大崎義兼に反乱を起こし、義兼は百々城に逃れ、葛西領の薄衣美濃入道と江刺三河守に、反乱を鎮めるための出兵を要請して来た。薄衣氏と江刺氏は葛西氏に臣従していることもあり再三断ったが、ついに断わりきれず援兵を出した。しかし葛西太守は大崎救援には反対であり、薄衣美濃入道の謀反として城は包囲された。

葛西氏の大軍に囲まれ万事窮した美濃入道は、自刃しようとしたが米谷氏に制止され、美濃入道は伊達成宗に救援を求める書状を送った。これが『薄衣状』として現在も残っており、動乱の詳細が認められていて、当時の情勢を知る貴重な歴史的史料となっている。その後、南部氏や斯波氏、和賀氏らの救援をえて美濃入道は反撃に転じ、この争乱は、伊達成宗の仲介により治まったと思われる。

永正4年(1507)、薄衣一族に争いが起きて、永正7年(1510)、薄衣清貞は一族の金沢氏を攻めた。しかしこの戦いで薄衣氏は敗れ、その後薄衣氏は頽勢に傾いたようだ。しかしその後も葛西氏の重臣として一定の勢力は持っていたようで、天正8年(1580)には、薄衣甲斐守が葛西太守にかわって上洛している。

天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原討伐に対して、薄衣氏の主家の葛西氏をはじめ、大崎、和賀、稗貫らの諸氏は、小田原に参陣しなかった。その結果、奥州仕置によって、ことごとく所領は没収され葛西氏は没落した。

これに対して、葛西氏、大崎氏の旧臣は、過酷な太閤検地に対し一揆を結んで仕置軍に抵抗した。このとき、薄衣甲斐守も一揆に加担し、黄旗千五百騎の大将として栗原郡森原山に陣を敷き抵抗している。豊臣秀吉は伊達政宗に一揆討伐を命じ、一揆勢は平定され雲散霧消した。伊達政宗は天正19年(1591)、一揆に参加し降伏した物頭たちを、桃生の深谷に集め謀殺した。薄衣甲斐守も、このとき討ち死にしたと考えられ、薄衣城もこの時期に廃城になったと考えられる。