岩手県花巻市石鳥谷町八重畑

2012/09/08取材

 

八重幡館は北上川と二郷川が合流する左岸微高地に築かれた平城である。この館は、稗貫から大迫、土沢への交通の要衝に位置し、また北上川を監視できる位置にある。城域は東西約500m、南北約250mほどと思われる。二郷川を自然の濠とし、 本郭、二ノ郭、三ノ郭、内館、出丸、牢舎の6つの郭からなる連郭式の城館である。それぞれの郭は堀により区画されている。それぞれの郭は規模が大きく、要害性は脆弱だが、多数の兵を収容できたと考えられる。現在、館跡は耕作地や住宅地となっており、遺構の多くは消失しているが、堀の一部や土塁跡が残っている。

八重幡館の創建時期は明らかではないが、稗貫氏の重臣の八重幡氏の居館だったとされる。八重幡氏は、稗貫氏の始祖である藤原広重(異説あり)の子の重真を始祖とする。重真は後に八重幡信濃守光直と名乗ったと思われる。広重は源頼朝の平泉合戦に従い軍功を挙げ、建久8年(1197)に陸奥稗貫郡を賜り、その子の重真の代に、稗貫郡小瀬川城を居城として入部した。

永享7年(1435)の「永享の大乱」により、稗貫氏の居館である小瀬川館が南部氏十四代義政によって攻撃された際、稗貫勢側の八重幡豊前守が奮戦したと伝えられる。さらに元亀2年(1571)、斯波氏と南部氏が境界争いによる抗争に発展した際に、八重幡氏は調停役を務めるなど、この地域では有力な勢力だった。

天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥州仕置により、主家の稗貫孫二郎広忠は所領没収となった。当時の八重幡氏の当主は八重幡美濃守であったが、美濃守は主家に従い、八重幡氏も没落したとされる。同年、検地に抵抗し、和賀氏、稗貫氏が蜂起した際は八重幡掃部なる者が一揆に参加したようで、稗貫広忠に従い、鳥谷ヶ崎城の攻撃に参加し、一時的に鳥谷ヶ崎城を奪取したがその後南部信直により制圧された。

その後の慶長5年(1600)に、関ヶ原の戦いに乗じた伊達政宗に扇動される形で「和賀稗貫一揆」が勃発すると、稗貫の一揆勢は伊達軍の支援を受け大迫城を攻め、南部氏の守将田中藤四郎を倒して一時は城を制圧し、この八重畑館も一揆勢が抑えた。しかし関ヶ原の戦いが早期に集結し、伊達勢も手を引いたことから一揆勢は城を放棄した。

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