岩手県花巻市石鳥谷町五大堂

2012/09/08取材

 

この地の光勝寺は、平安時代前期の承和3年(836)に開基したと伝えられ、江戸時代には、盛岡南部藩主の祈願寺として、百石を領していた。 陸中八十八ヶ所霊場のうちの第八十八番の打ち納めの所であり、また当国三十三観音霊場の第十六番目の礼所ともなっている。

この地には、次のような大蛇伝説が伝えられている。

建治年間(1275~77)頃、光勝寺に智空阿闍梨という住職がいた。そのころの光勝寺は寺院の規模も広大で、この地方有数の霊場であり、修法の鈴音が絶えず、常に香の煙がかすみのように漂っていたという。光勝寺には二人の賢い子供がおり、住職の智空は、二人をことのほか愛しんでいた。

ある時、二人が鐘をつくために鐘つき堂に行ったところ、そばの大沼に棲む大蛇が鐘つき堂の傍に潜んでおり、大蛇は二人を捕えて沼に引き入れ、そのまま呑み込んでしまった。

これを知った智空は嘆き悲しみ、大蛇降伏の七日間の祈祷を行った。智空の怒りはすさまじく、その霊力で、大沼の大蛇は沼の中でもだえ苦しんだ。六日目になって大蛇は人間の姿に化身し、智空の前に現れ、「悪意で子供を呑んだのではなく、あまりに可愛いので呑んでしまった。末世までこの寺を守り、必ず悪意は慎むので許して欲しい」と懇願した。

しかし智空の怒りは収まるものではなく、大蛇の懇願などは一切聞き入れず、そのまま祈祷を続け、ついに満願の日になった。その日、沼の雌雄二頭の大蛇は、苦しみに耐えきれず、この地から少しでも逃れようと、沼から這い出て、苦しみで村中をのたうち回りながら北上川に入って流れていったが、和賀の黒岩でついに力尽き、二つの黒い岩になった。

現在も北上川の水量が少なくなると、この岩が岩肌を見せるという。このとき大蛇が北上川まで這ったと伝えられる跡が、今も水田として残っており、蛇ぬめり田と呼ばれている。

その後の享保年間(1716~35)の頃に天災があり、山から水が流れ出て、沼の底を浚ってしまった。村人たちが集まり、あらわになった沼の底を見ると、たくさんの人骨が重なり合っていた。これは大蛇の犠牲者の骨だろうということで、光勝寺の意向により埋骨し弔ったと云う。