岩手県田野畑村池奈

2017/03/12取材

 

江戸時代後期、財政難にあえぐ南部盛岡藩は、農産物だけではなく他の産業にも税をかけ厳しく取り立てた。この三閉伊通は、鉄の生産が行われ、また漁業も盛んで、特に税負担が重かった。

このため、切牛弥五兵衛らを指導者として、弘化4年(1847)三閉伊地方で総勢1万2千人余りが立ち上がり、藩政改革を訴えて一揆を起こした。この一揆で一応の成果を収めたが、弥五兵衛は、その藩政の改革が不十分であることを見通し、さらなる一揆の勧誘を行なっていたが、弥五兵衛は捕縛され、嘉永2年(1849)斬殺された。その後、弥五兵衛が懸念していたように、南部藩は反対派を弾圧、一揆での約束を破棄し、新税、増税、御用金をさらに民衆に課した。

嘉永6年(1856)、弥五兵衛ら、弘化の一揆の指導者の意志を受け継いだ、畠山多助(太助)、善蔵らを指導者とし、再び一揆が起こった。5月、田野畑村、羅賀村、黒崎村、普代村の4ヵ村の百姓たちが残らず集会を行い、その夜の内には田野畑村のこの地に集まり密談を行った。翌日には、この地に沼袋村、浜岩泉村の百姓も合流し北上を始めた。

一揆勢は、各村々を廻り群衆を膨らませ、大被鉄山を打ち壊し、さらに一揆勢は白赤たすきをして、筵旗に「小〇(困るの意味)」と記し、槍隊、棒隊と隊列を組んで浜通りを南下、資産家に軍資金や食料を供出させ、出さないと家財家屋を打ち壊しながら進んだ。

これまでのことから、南部藩の対応に見切りをつけていた一揆勢は、その半数は間道を進み藩境を越えて仙台領に入り、仙台藩に政治的要求3ヵ条と具体的要求49ヵ条を提出した。その要求は「三閉伊通の百姓を仙台領民として受け入れ、三閉伊通を幕府直轄地か、もしできなければ仙台領にしてほしいなどとするものだった。

この当時の南部藩の領民は35万人で、三閉伊地方の領民は約6万人だった。その中で1万6千人に上る一揆は、南部藩全体を震撼させる大規模なものだった。

一揆勢は45人の代表を仙台藩に残し帰村し、45人衆と仙台藩、盛岡藩は交渉を重ね、半年後に39箇条の要求を認めさせ、さらには一揆参加者の処罰も一切行わないという「安堵状」を得て、目的を達した。