岩手県花巻市大迫町亀ケ森字羽黒堂

2012/09/08取材

 

御所館は稗貫川の右岸の、東へ延びる比高約50mの丘陵突端に築かれている。館の北側は深い沢で、北と南側は急傾斜の断崖になっている。西側の丘陵続きは空堀で断ち切り、城域を区画している。

城域は、東西約150m、南北約150mほどで、主郭を中心に東側に二の郭、南側には数段の段郭を設けている。主郭は東西約70m、南北約50mである。西側の空堀は、幅約7m、深さは約4mで尾根を遮断している。

全体として規模は小さく、また要害性は低いが、稗貫川流域を見下ろす要地にあり、また同地は大迫から花巻に繋がる街道が通っており、交通の要衝を扼する性格の館だったと思われる。

築城時期、築城主ともに不明であるが、「御所」の名称から、南北朝期の争乱と関わりがあったとも考えられる。

室町期には、館主は在地勢力の衣更木氏と伝えられ、稗貫氏に従属していたとされる。衣更木掃部は、応仁、文明年間(1467~86)、同じ稗貫氏の家臣の亀ヶ森図書の攻撃を受けて没落したと伝えられる。

亀ヶ森図書が攻め込んだその日は、「九日餅」といい、餅をついて盛大に祝う慣わしだった。この館でも、館主以下城中の者全員が、家老の屋敷に集り、盛大な祝宴を催していた。その宴もたけなわのころ、亀ヶ森図書が突如として攻め込み、難なくこの館を落としてしまった。それ以来、この地域では九日餅の行事は、その前日の9月28日に行うようになった。

衣更木掃部の妻は尼として出家し、京都へ上り本願寺九代実如上人の弟子となり、妙祐尼と名乗った。妙祐尼は、この地の妙琳寺に、実如上人の御判印を押した「阿弥陀如来真向絵像」の掛軸を京都より送り届けた。妙琳寺にはこの掛軸が今も伝わっており、寺では届けられた時をもって開山としている。

妙祐尼はその後一人で故郷に向かったが、ついにこの地には戻らず、その行方はわからない。