岩手県花巻市葛第一地割…花巻農業高校敷地内

震災前取材

 

この花巻農業高等学校の敷地内にある「羅須地人協会」は、もとは花巻市の桜町に、宮沢賢治の祖父の喜助翁の隠居所として建てられたもの。

大正15年(1926)に、花巻農学校(現在の花巻農業高等学校)を退職した賢治は、この家に「羅須地人協会」を設立した。「協会」とはいっても、実質的には賢治一人の手になる私塾である。労働農民党の岩手県での有力献金者であり、農業指導に奔走、また農民芸術を説き、自ずからも上京し、タイピングやエスペラント、オルガンやセロを習った。

賢治は、昼間は周囲の田畑で農作業にいそしみ、夜には農民たちを集め、科学やエスペラント、農業技術などを教えた。また、「農民芸術」の講義も行われ、レコードの鑑賞会や、子ども向けの童話の朗読会も行った。このほかメンバーが不要品を競売する一種のバザーも開き、農閑期に被服や食糧、工芸品を製作することも企図していた。

協会には、若い農民たちは集まったものの、年長の保守的な農民までの広い理解はなかなか得られなかった。昭和2年(1927)、地元の新聞に、「農村文化の創造に努む、花巻の青年有志が地人協会を組織し自然生活に立ち返る」という紹介記事が掲載された。この記事自体は好意的なものであったが、この記事をきっかけに「若者に社会教育を行っている」という それまでの風評から、賢治は協会の活動に関して花巻警察から聴取を受けた。このことから賢治は、協会としての活動を休止した。

協会は休止したが、その後も賢治は農業指導の活動を続け、特に、農家に出向いての施肥指導がよく知られる。しかし、翌年の昭和3年(1928)、夏に高温で干天が続く中で農業指導に奔走したことから健康を害し、実家に戻って療養することとなった。以後、独居生活や、羅須地人協会は再開できないまま終わってしまった。

療養生活を送りながら、文語詩を初めとする創作活動を行っていたが、昭和8年(1933)9月、急性肺炎で死去した。享年37歳の若さだった。

この羅須地人協会を含めた独居生活の時代は、賢治の生涯の中では、直接農業指導に携わり、自らの理想の実現を目指した点で象徴的な意味を持つものである。

その後、この家は他人に譲られこの地に移築されていたが、この地に花巻農業高校が新築されることになった。この不思議な巡りあわせに、同窓会や学校も驚き、修復保存されることになり、現在は学校内の敷地の一角に整備され公開されている。

玄関横の黒板には、賢治の筆跡を模した『下ノ 畑ニ 居リマス 賢治』の文字が書かれている。これは、現在も消えないように、農業高校の生徒によって上書きされ続けているという。

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