岩手県久慈市長内町

2012/03/31取材

源九郎判官義経は、兄の頼朝に追われ、文治5年(1189)、平泉の高館において31歳で自刃した。しかし、その一年前にひそかに平泉を脱し、北をめざし蝦夷地に逃れたとする伝説があり、これが義経北行伝説である。

畠山重忠は、源頼朝から平泉を脱出した義経主従の追捕を命じられこの地に至った。重忠は諏訪ノ森に陣を敷き、義経主従を待ち受けていたが、義経一行はそうとは知らずにこの地を通りかかった。

重忠は義経とともに平家を追討した間柄であり、義経の境遇に同情もしていた。吉田城を出て北に向かう義経主従は、重忠の陣に気付いたがそのまま落ちていった。重忠は、諏訪ノ森から落ちゆく義経主従に向けて、当らないように念じて矢を射た。

その矢はこの地の松の木に当り、義経一行はそのまま無事北に落ち延びた。重忠は、その矢を御神体として社を建て、諏訪神社として祀ったと云い、その時の矢は今も御神体として祀られていると云う。