岩手県久慈市侍浜町麦生第1地割

2012/03/31取材

麦生御台場跡は、久慈湾に面した標高60mの断崖上の平坦面にあった。

江戸幕府は寛永11年(1634)、外国往来の禁止、並びにキリスト教の禁止を強化したことにより、盛岡藩では外国船監視のため領内20箇所に浦番所を設け、外国船往来の見張りに当たらせ、係役人が巡回し万全を期していた。盛岡藩の文書には、「正保元年(1644)4月26日浦番改 久慈之内大尻崎、同所麦生崎」とあり、沿岸警備に麦生崎は重要な場所とされていた。

寛政4年(1792)ロシアの船が来航したことから、異国船の出没に備え沿岸防備として番所を陣屋とし、砲を備え台場化したとされる。藩政時代に作成された陣屋についての古絵図には、久慈湊、麦生に陣屋があり、それぞれに「討場」として記載されている。麦生崎には「討場」が4箇所あったとされ、一部に崩れかけた土塁が残っている。