岩手県久慈市川貫

2012/03/31取材

近代柔道の礎を築いた講道館柔道十段の三船久蔵は久慈市の出身で、その功績を顕彰する記念館がある。記念館には、パネルや書道作品、遺品が展示され、三船十段が創案した技「空気投げ」など貴重な映像も見られる。

三船久蔵は、明治16年(1883)現在の久慈市に生まれた。久慈尋常高等小学校卒業後に郡役所に勤めたが数日で退職。呆れた父は、一関中学(現岩手県立一関第一高等学校)、さらに仙台の仙台二中(現宮城県仙台第二高等学校)に進ませた。

仙台で柔道に出会った久蔵は、旧制第二高等学校に通い詰めて、師範の大和田義一に熱心に教えを受け、後に仙台二中に柔道部をつくった。久蔵は仙台で柔道にのめりこんでいったが、すでに仙台には三船と互角に戦える相手はいなかったため、明治36年(1903)に上京して講道館に入門、横山作次郎の弟子となった。

球車、大車、踵返し、三角固め等多数の新技を発明し、その真髄といえるのが隅落(別名空気投げ)だった。この「空気投げ」は、三船久蔵によると「相手が大きいほど技をきめやすい」というが、当時の高段者達からは冷やかに見られていた。また久蔵自身も、下の者に対しては成功していたものの実力対等の相手に対しての有用性については一抹の疑念を抱いていたようだ。しかし昭和5年(1930)の第1回全日本柔道選士権大会での模範試合において、佐村嘉一郎七段を「空気投げ」で見事に投げて一本勝ちを収めて技の効果を証明した。

講道館では指南役をつとめ、東京帝大、明大、日本体育専門学校等多数の大学、専門学校、警視庁の柔道師範として柔道の普及、後進の育成に多大な功績を残した。また、柔道の国際化にも尽力し、昭和31年(1956)に東京で開催された世界柔道選手権大会では審判を務め、昭和39年(1964)の東京オリンピックでは柔道競技運営委員を務め、国際的競技としての「柔道の完成」を見守った。その翌年の昭和40年1月、喉頭腫瘍と肺炎のため82歳で永眠した。