岩手県奥州市江刺区岩谷堂字下苗代沢

震災前取材

 

豊田館は、亘理権太夫藤原経清とその子清衡の居館だった。経清は、田原の藤太と呼ばれた藤原秀郷の子孫と云われ、宮城県亘理地方を治める国府の官人だったが、その後、奥六郡を支配していた安倍頼時の娘婿となり、この豊田館に住まいした。

勢力を拡大する安倍氏を警戒した朝廷は、陸奥に源頼義、義家父子を送り、これにより前九年の役が勃発した。経清は初め朝廷軍の将として、源頼義の麾下に属したが、途中から安倍氏に味方し、源氏とこれを援ける秋田の清原氏の連合軍と戦ったが、最後は、康平5年(1062)、厨川の柵で敗れ処刑された。この時、清衡は七歳で、母は清衡を助けるために、敵将清原武貞の後妻となった。

20年後、清原氏の内紛から起こった後三年の役で、清衡は源義家の援けを受けて勝ち残り、豊田館に戻り奥羽を治めた。その後、康和年間(1099~1103)に平泉へ移り、藤原四代の祖となった。

東西78間、南北46間の規模を持ち、三つの郭を空堀で区画してあったと伝えられるが、遺構らしいものは殆ど残っていない。

 

・豊田城址碑

この城址碑は、江戸期に仙台藩儒の田辺希元により建てられたもので、碑文は以下のようなものである。
この地也、東西五十七歩、南北三十九歩、昔、亘理権太夫経清の城があった所也。経清、平泉の役で戦死、以って其の子権太郎清衡、勤皇の勲により、奥六郡を復し、之に居す。城の辺りに北上川在り、浮梁の称今も存す。東北に高水寺址、東南に鎮岡祠、白旗池有り。これらのことは封内風土記に詳しく記す。歴年多く経ると人之を知らず。以って之を伝える為碑を立てるものである。