岩手県奥州市水沢区吉小路

震災前取材

 

この武家屋敷は、留守家御小姓頭を勤めた後藤佐伝治実崇の屋敷で、後藤新平は、安政4年(1857)その長男としてこの家で生まれ、留守家奥小姓として幕末を向かえた。江戸時代後期の蘭学者の高野長英は後藤の大叔父に当たり、甥に政治家の椎名悦三郎がいる。

この地周辺は、「給主小路」と呼ばれ、上級家臣の武家屋敷が置かれたところで、屋敷には冠木門、茅葺の母屋と厠、板倉、井戸、老松などが残り、武家屋敷の景観をとどめている。母屋は、18世紀中ごろの建築で、晩年の新平が修理したものが、現在保存公開されている。

胆沢県大参事であった安場保和にみとめられ、後の海軍大将の斎藤実とともに、13歳で書生として引き立てられ県庁に勤務、その後、16歳で福島洋学校に入った。

恩師の安場などの勧めもあり、17歳で須賀川医学校に入学、安場が愛知県令になったこともあり、愛知県医学校、現在の名古屋大学医学部で医者となった。ここでわずか24歳で学校長兼病院長となった。

医師として高い評価を受け、また愛知県医学校での経営実績を認められ、内務省衛生局に入り、医者としてよりも官僚として病院、衛生に関する行政に従事することとなった。

明治26年(1893)、旧相馬藩主家の内紛の相馬事件に巻き込まれ収監され、無罪になったものの一時逼塞する破目となった。しかし、明治28年(1895)復帰し、広島で臨時陸軍検疫部事務長官として従事し、その行政手腕を当時上司だった陸軍参謀の児玉源太郎に認められた。

明治31年(1898)、児玉が台湾総督となると後藤を抜擢し、自らの女房役である民政長官とした。後藤は、徹底した調査事業を行い、台湾の経済改革とインフラ建設を進め成果を上げた。

当時は、中国本土と同様に、台湾でも阿片の吸引が庶民の間で普及しており、これが大きな社会問題となっていた。後藤は、この悪弊を排除しようとしたが、「日本人は阿片を禁止しようとしている」という危機感が抗日運動の引き金のひとつともなっていた。
このため後藤は、阿片を急激に排除しようとはせず、阿片に高率の税をかけたり、吸引を免許制としたりと、ゆるやかな現実的な改革を行い、施策の導入から50年近くをかけて台湾から阿片を根絶した。

明治39年(1906)、南満洲鉄道初代総裁に就任し、大連を拠点に満洲経営に活躍した。満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。
当時、満州に大きな関心を持っていたのは袁世凱を中心とする北洋軍閥だった。袁世凱は、日本の満州における権益独占を好まず、アメリカを引き込み、満鉄に並行する路線を建設しようとした。後藤はこれを阻止したが、清国人の満鉄株式所有や重役就任などを承認、またロシア帝国との関係修復にも尽力した。後藤の考えは、満州における日本の権益を確保しながら、日清露三国が協調して互いに利益を得る考えだったとされる。

明治41年(1908)に、第2次桂内閣で逓信大臣に就任すると、その後も内務大臣や外務大臣を歴任、関東大震災直後の大正12年(1923)に、第2次山本内閣で、内務大臣兼帝都復興院総裁として震災復興計画を立案した。
それは大規模な区画整理と公園、幹線道路の整備を伴うもので、当時の国家予算に匹敵する13億円という巨額の予算のため、「後藤の大風呂敷」と称され、財界等からの猛反対に遭い、当初計画から5億7500万円まで縮小せざるを得なくなった。しかしそれでも、現在の東京の都市骨格を形作ることができた。この復興事業は、既成市街地における都市改造事業としては世界最大規模であり、世界の都市計画史に残るものである。

ソビエト連邦との国交正常化をはかり、社会主義者との親交もあり、一部からは「赤い男爵」と呼ばれたりもしたが、あくまで日本とロシアの国民の友好を考えてのことであり、日露関係が正常化される事を展望し臆する事はなかった。

晩年は、東京放送局の初代総裁や、少年団日本連盟会長などに就任、また政治の論理化を唱え各地を遊説した。昭和4年(1929)、遊説で岡山に向かう途中列車内で脳溢血で倒れ没した。倒れた日に残した言葉は、「金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ」だったという。

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