岩手県奥州市水沢区大手町一丁目

震災前取材


 

江戸期の水沢城の面積は、19,511坪で、梯郭式の平城である。城の北西に本丸があり、その外側に、二ノ丸、三ノ丸、そして御門の外には当主の家族が暮らす南ノ丸があり、それぞれが水堀と土塁で囲まれていた。

本丸は城内の最高地にあり、二ノ丸には城の中心となる御殿が築かれていた。廻りには、埋門や御台所、湯屋、酒蔵などがあった。三ノ丸は城の入り口になり大手門、太皷櫓、御門番所、硝石蔵、御兵具蔵、などがあり、練兵場や郷学立生館等もあり、太皷櫓には伊達家一門を表す鯱が飾ってあった と云う。

水沢城は、天喜5年(1057)、源頼義が築いたと伝えられるが、詳細は不明である。中世には、この地域は葛西氏の支配下にあり、葛西氏の家臣の蜂谷氏が築いたとも伝えられ、胆沢平野支配の拠点の一つであったと考えらる。

応永15年(1408)、足利4代将軍義持に仕えていた佐々木将監繁綱は、葛西氏を頼り奥州に下向した。繁綱は葛西氏によりこの地に知行を与えられ、水沢城を居城にしたといわれる。

その後、佐々木氏は葛西氏に従い、文明17年(1485)には、葛西氏と気仙郡有住の南部氏との合戦に、大永3年(1523)には、葛西氏と大崎氏 の佐沼、深谷での合戦に参陣、さらに天正7年(1579)には磐井郡峠の寺崎氏と栗原郡岩ヶ崎の富沢氏の争いや、天正16年(1588)の気仙郡浜田の兵乱にも出兵している。しかし、天正18年(1590)、小田原 に参陣しなかった葛西氏は、豊臣秀吉の奥州仕置において所領没収となり、佐々木氏もこれに従って没落した。
この地は木村吉清の所領となり、水沢城にはその家臣の松田源太郎左衛門が配された。しかし木村氏の暴政を不満とした旧葛西、大崎氏家臣や領民が葛西大崎一揆を起こし、一時は一揆勢の支配するところとなった。しかし秀吉の命令で、 結局は伊達政宗により鎮圧され、この地は政宗の支配下となった。この地には政宗の側近の白石宗実が1万5000石で入り、その死後は、梁川宗清より養子をむかえ白石宗直が城主と なった。

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの際に、政宗は白石宗直に、和賀郡の旧領主和賀義忠の嫡男和賀忠親を支援させ南部領で和賀一揆を起こさせた。しかし、関ヶ原の戦いの早すぎる終結で失敗し、忠親は仙台にて処刑、宗直は登米郡寺池城に移封となった。

その後、一国一城令に伴い「水沢要害」となり、柴田氏、石母田氏と領主が変わり、寛永6年(1629)、に伊達政宗の従兄弟にあたる留守宗利が金ヶ崎から入り、以後は宗利を祖とする「水沢伊達氏」の支配が幕末まで続いた。

明治に入り、二ノ丸御殿に胆沢県庁がおかれ、その後城域のほとんどが民間に払い下げられ城の遺構は消滅した。現在、三ノ丸跡に奥州市役所が建ち、その土塁上に、推定樹齢500年の「姥杉」があり、また城の冠木門であった「黒門」が残っている。