岩手県奥州市水沢区大手町五丁目

震災前取材


 

江戸時代に入り、この地は伊達氏が支配し、その重臣の柴田氏、石母田氏と領主が変わったが、寛永6年(1629)、に伊達政宗の従兄弟にあたる留守宗利がが1万6千石で金ヶ崎から入った。留守氏は「水沢伊達氏」として幕末まで続き、この留守宗利以降、水沢は城を中心とした本格的な町割がなされたと考えられる。

町割りは、水沢要害を中心に家臣を配し、奥州街道沿いには商家町として商人を集め経済的にも確立し、その東側に寺院を集め小さいながらも寺町を形成し、防衛の役割をもたせ、現在の奥州市水沢区の原型が形成された。

現在、幕末に留守家の御小姓頭を勤めていた八幡家が残るこの地域は、「広小路」と呼ばれ、大手門から東に伸びる「大手小路」には、家老や御一門などの重臣の屋敷がおかれていた。

屋敷内には、明治初期に建てられた和洋折衷の数奇屋風の母屋が残り、また土蔵、板倉などがある。母屋の玄関は、武家住宅としては珍しい唐破風をつけているが、式台の奥には板戸があり、江戸時代の武家住宅の特徴的な構造を受け継いでいる。

また、この八幡家は、明治14年(1881)の明治天皇行幸の際に、随行員の宿舎になった。