岩手県一関市地主町

震災前取材

 

 

松尾芭蕉と曾良は、石巻から登米を経て一関街道をたどり一関についた。この一関街道の旅は難渋したようで、曾良随行日記には次のように記されている。
一 十二日 曇。戸今を立。三リ、雨降出ル。上沼新田町(長根町トモ)三リ、阿久津(松島ヨリ此処迄両人共ニ歩行。雨強降ル。馬ニ乗)一リ、加沢。三リ、皆山坂也。一ノ関黄昏ニ着。合羽モトヲル也。宿ス。
途中雨に合い、現在の花泉町涌津から馬に乗り、合羽の中まで通るような土砂降りの雨の中を山越えし、ようやく黄昏時に一関に着いた。

芭蕉と曾良はこの宿を基点にして翌日平泉に向かい、平泉各所を巡った後に一関に戻り、この宿に再び泊まった。

この時代の一関は、寛文11年(1671)までは伊達藩の支藩として、伊達政宗の十男の伊達兵部大輔宗勝が三万石でこの地を治めていた。しかし、寛文事件により失脚し、伊達の一族で田村氏を継いだ田村因幡守建顕が岩沼三万石から入封した。このときから一関の町づくりが本格的に行われ、芭蕉が訪れた時期は、一関の城下町が整備されていた時期で、活気にあふれた町だったと思われる。