岩手県一関市駅前

震災前取材

 

仙台藩は、元文元年(1736)、五代藩主伊達吉村以降、学問の気風にあふれ、藩校が設置された。宝暦10年(1760)には医学教育が開始され、安永元年(1772)養賢堂と改称され、文化14年(1817)頃には、校舎の大幅な拡張工事が行われ、全国的にも屈指の高度な教育が行われた。

この学問の気風は、仙台藩内の隅々まで行き渡り、特に、仙台藩の支藩である一関藩からは大槻玄沢が輩出され、さらにその子の大槻磐渓、孫に大槻文彦が出て、さらに親族からは養賢堂学頭の大槻平泉が出るなど、「西の頼家、東の大槻家」と称されるようになった。

 

・大槻玄沢

宝暦7年(1757)生まれ、蘭学者として高名である。杉田玄白、前野良沢の弟子となり、「玄沢」は、師である二人から一文字ずつもらってつけた通り名である。

同じ郷里の医師、建部清庵に師事し、早くから医学、語学に才能を示した。後に杉田玄白の私塾の天真楼に学ぶ。天明8年(1788)、蘭学の入門書『蘭学階梯』を記す。江戸で、私塾の芝蘭堂をひらき、多くの人材育成に当たった。また、毎年芝蘭堂で「オランダ正月」と呼ばれる西洋の暦に合わせた新年会を開いており、ロシアへ漂流した大黒屋光太夫などとも交流している。

 

・大槻磐渓

享和元年(1801)、大槻玄沢の次男として生まれた。16歳のころ昌平坂学問所で大学頭を務める林述斎の林家に入門し学んだ。22歳の頃、仙台藩校の養賢堂に入り、ここで学頭を務める親族の大槻平泉に抜擢され、指南役見習となった。27歳の頃、父の取り組む蘭学の修行を念頭に、関西、九州を経て長崎へ遊学した。京都で頼山陽と出会い、磐渓の漢文を見た山陽は、磐渓に「後来有望なり」との評価を与え、酒杯を共にした。しかし、父玄沢の死や、シーボルト事件の影響から、結局蘭学修業はできず、蘭学ではなく漢学を志すことになった。

32歳のころ、磐渓は学問修行が認められ、仙台藩の正式な藩士となった。天保12年(1841)、武蔵の徳丸ヶ原で、高島秋帆の指導のもと洋式軍の訓練が行われた。砲撃演習も行われ、これを見学していた磐渓は「漢学を本業、西洋砲術を副業として文武両刀たらん」と西洋砲術を学ぶ決意をする。嘉永3年(1851)には、藩から「西洋砲術稽古人」を命じられ、安政2年(1855)には藩から「西洋流砲術指南取扱」を命じられている。

父玄沢の影響もあり、早くから西洋の医術や技術に触れていた磐渓は、開国論を唱え、幕府老中の阿部正弘に開国論の建白書を提出した。彼の主張は親露開国論であり、アヘン戦争でイメージの悪かったイギリス・アメリカではなく、古くから交流のあったロシアに接近しつつ開国しようという考えである。しかし、当時の世論は圧倒的に攘夷論が優勢であり、磐渓の態度は多くの非難を浴びた。

文久2年(1862)、磐渓は仙台への帰還を命じられた。これは、藩の情報通として藩主に重宝されている磐渓を、暗殺された佐久間象山の二の舞にはさせたくないという意図があったと云う。幕末の仙台藩では、討幕派と佐幕派との激しい抗争が展開されたが、結局、藩主伊達慶邦は、佐幕派の意見を受け入れた。その後磐渓は、藩校の養賢堂で学頭添役として教鞭をとり、元治2年(1865)、前学頭の大槻習斎の死を受け養賢堂の学頭に就任した。その発言は仙台藩の執政に対しても大きな影響力を持った。戊辰戦争期での東北地方における諸戦争を指導した仙台藩の但木土佐、玉虫左太夫などは磐渓の教え子に当たる。

慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いを機に戊辰戦争が勃発し、仙台藩には会津藩追討の命が下った。仙台藩は会津に出兵し、会津藩は降伏した。仙台藩は会津藩を許すことを朝廷へ働きかけるが、これが聞き入れられることはなく、結局、白石に奥羽14藩の代表が集まり、盟約書が審議され奥羽列藩同盟が発足した。仙台藩が奥羽列藩同盟の盟主になると、論客として各藩の参謀と関わりを持った。また星恂太郎率いる仙台藩の洋式歩兵隊の成立にも関わった。

しかし同年、仙台藩は降伏し、戦争は敗北に終わった。磐渓は中里村の大槻宗家で逮捕され、仙台へ護送され、明治2年(1869)に監獄入りとなった。戦後の仙台藩は新政府から勤王派と評価されたかつての倒幕派が中枢を占め、戦争を主導した佐幕派への報復的戦後処理が行われた。磐渓もまた斬首刑者のリストに入っていたが、高名な漢学者であり、さらに老体であることなどから終身禁固の刑となった。明治3年(1870)、病を理由に仮出獄を許されたが、これは磐渓を尊敬する牢の医師、同室者、獄吏らの謀りごとであり、本人はいたって健康だったという。

晩年、磐渓は、江戸で静かに余生を送った。以前より西洋文明への関心が高かった磐渓は、文明開化で様変わりする世相を興味深く見守りつつ暮らした。酒に酔うと「それみろ、俺が攘夷論の火のような中で、開国せにゃならぬと言ってきた。その通りであろう。あの時、鎖国攘夷を唱えた者は、本当に世界の形成を知らぬ大たわけだ」と述べることがあったという。

 

・大槻文彦

大槻磐渓の三男で、大槻玄沢の孫にあたる。幕末には、仙台藩の密偵として鳥羽伏見の戦いに参戦している。戦後は、佐幕派として奥羽越列藩同盟を提唱した父の大槻磐渓が戦犯となった際、兄の如電とともに助命運動に奔走した。

仙台藩校養賢堂で、英学や数学、蘭学を修めたのち、大学南校を経て、明治4年(1872)に文部省に入省、明治5年(1873)には宮城師範学校(現・宮城教育大学)校長となった。明治7年(1875)に、国語辞書の編纂を命じられ、明治17年(1885)に『言海』を脱稿した。また日本文典をも完成し、その学は一世に聞こえた。

明治25年(1893)、旧仙台藩校養賢堂の流れをくむ宮城県尋常中学校(仙台第一高等学校の前身)に、郷党の懇請により初代校長として就任した。大槻文彦のその生徒に与えた感化は絶大なもので、人格高潔、識見高邁、全国随一の名校長として今も伝説として語り継がれている。

大槻校長は、全校生徒に週一回の倫理の講義を受け持っていたが、いかなる生徒であっても、大槻校長の倫理の時間には粛然として自ずから襟を正さずにはおられなかったという。その話は主として実践道徳であったが、古今東西の格言を豊富に引用し、生徒に非常なる感銘を与えたと云う。単なる道学者流の話ではなく、また生徒を一定の型に押し込めようとするものでもなく、生徒をして自ずから悟らしめ、自重せしめるといういわば生徒の人格を尊重し、その個性を伸張する風のものだったと云う。

晩年は、故郷の教育に心を傾けながら『大言海』の執筆を行っていたが、増補途中の昭和3年(1928)、その完成を見ることなく自宅で死去した。

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