岩手県一関市城内

震災前取材

 

別名:高崎城、篠見山

一般に一関城というと、今日の釣山公園の地を言うことが多いようだが、これは中世の城跡である。

近世には、釣山の北側の現在の市街地に居館が置かれ、城としての機能を持ち、釣山は物見や狼煙台、いざと言う時の詰の城の役割を持ったと思われる。
城としての遺構は殆ど無いが、裁判所内にある池が、かつての堀跡と伝えられる。

釣山は、大同(たいどう)年間(806-809)には征夷大将軍坂上田村麻呂の陣地になったといわれ、天喜(てんき)年間(1053-1057)には安倍貞任の弟の磐井五郎家任(いわいごろういえとう)の居館だったと伝えられる。

前九年の役の折には、源頼義、義家親子の篠見山の陣地になり、源頼義と清原武則の軍がここで合流し、赤荻、荻荘小松柵にいた安倍氏を打ち破ったと伝えられている。

その後奥州藤原氏の領地となったが、この頃には関があったことから一関の地名が起こったとも云われる。藤原氏が源頼朝によって滅ぼされると、その戦いで軍功のあった葛西氏の領地となった。

一関城に葛西氏の家臣の小野寺道照が入城したのは天正年間(1573-1591)で、葛西氏が石巻から登米に本拠地を移した際、すでに登米(とよま)を領していた小野寺氏を移封したものと考えられる。奥州仕置きにより葛西氏の領地召し上げがされたとき、城主の興田左近は葛西氏とともに戦って滅亡している。

奥州仕置の結果、豊臣秀吉家臣、木村吉清の領地となるが、大崎・葛西氏らの旧臣による一揆が起こるなど統治できず、その一揆を鎮圧した伊達政宗に与えられた。

政宗は叔父の留守政景を黄海(藤原町)より移し、その後慶長12年(1607)政景の死後に子の兵部宗勝を配した。しかし宗勝は寛文11年(1671)の伊達騒動(寛文事件)に関与して土佐に配流され、天和2年(1682)より田村右京太夫建顕が岩沼城より所替えとなり、以後田村氏は仙台支藩一関藩主として明治維新を迎えた。