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福島県西会津町野沢如法寺

2020/07/20取材

 

如法寺鳥追観音は、徳一大師が、平安時代初期の大同二年(807)に、会津西方浄土の霊場を開かんと、阿賀川の御身が淵を通った時、観音様から「これより南の山に七仏説法の霊場あり。そこへ我を勧請せよ」とのお告げを受け、現在地に金剛山如法寺を開創した。

本尊は、行基作の聖観音像で、行基が、芹沼村の農夫に授けたものと伝えられる。奈良時代、天平八年(736)、行基が会津巡錫の際、とある貧しい農家に宿した。農夫は子にも恵まれず、鳥獣害による不作の貧苦で悲歎に暮れていた。行基はこれを憐れみ、念持仏である一寸八分の聖観音像を授けた。

以来、霊験著しく、観音様は、自ら鳴子の綱をお引きになり、鳥や獣を追ってくれ、豊作に恵まれるようになり、子宝も授かった。農夫はやがて西方浄土・阿弥陀仏の世界に安楽往生が叶った。それ以降、この観音様は「鳥追観音」と呼ばれるようになり信仰を集めるようになったと云う。

この地の観音堂は、やがてあの世は「西方浄土」へ安楽往生が叶うとの道理を示す為に、観音堂は、東西向拝口・三方開きという独特な構造になっている。東口から入り、北に座し南に」向いている鳥追観音に祈願し、戻らずに西口から出る形になっており、その彼方が「西方浄土」の世界となる。

 

この観音堂には見事な彫刻が見られ、中でも、左甚五郎の作と伝えられる彫刻があり、その中に「隠し三猿」が刻されている。また、身代りなで仏(金剛力士像)をなでで祈願すれば、ころりと大往生が叶うというので「ころり観音」とも尊称され、会津ころり三観音の一に数えられている。