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福島県金山町横田

震災前取材

  • 配置図(現地案内板)
文治5年(1189)、源頼朝の平泉藤原氏征討の際に、山ノ内経俊は戦功を立て、恩賞として、金山谷、伊北郷などに8百80貫文の地を与えられたと伝える。

この地には代官等を配していたが、実際にこの地に入部したのは、応永10年(1403)頃、山ノ内通俊と云われている。通俊は、横田の要害山に山城を築き、中丸城と称して、中世のこの地を支配する本拠とした。さらに領内の、川口玉縄城、沼沢丸山城、野尻牛首城、滝谷岩谷城といった七騎党城を築き一族を配し、また重臣には六固城、村落に51の持柵掻場を築き、領内支配に万全を期した。

城は、標高547mの要害山山頂に本郭を置いている。南、東は急斜面で囲まれ、北側には帯郭群を配し、その下には二の郭、三の郭を配している。三の郭から西側に尾根筋を守るように下の平などの郭を配し、周囲にはいくつかの出丸、出城を配し、只見川沿いの平坦地に居館を設けている。

天正17年(1589)、伊達政宗の会津侵攻で、葦名氏は摺上原の合戦で滅亡したが、時の領主氏勝は、中丸城や中山城、水久保城に拠って、翌天正18年(1590)まで頑強に抵抗した。この城は伊達勢により攻略されたが、山ノ内氏はさらに抵抗し、結局伊達政宗は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣すべく兵を引き、秀吉に臣従した。山ノ内氏勝はついに伊達氏に屈することなく所領 を守り抜いた。

しかし小田原攻めを終え会津に入り奥州仕置を行った秀吉は、政宗から会津を没収し、これを蒲生氏郷に与えた。山ノ内氏は葦名氏の旧臣として豊臣政権に認識され、山ノ内氏は上杉景勝被官と見なされ所領は没収された。

氏勝は蒲生氏の家臣となることを潔しとせず諸国を流浪し、越後大浦で失意のうちに死亡したという。