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金上(かながみ)館は単郭の方形館で、南北約80m、東西約40mで、内側に土塁を築き周囲に幅約4mの堀を巡らせ、南には虎口を開いて土橋をかけていたとされる。集落北寄りにある寺院と公民館に隣接した南側が館跡らしいが、遺構はかなり失われている。南側に土塁状の地形が見られ、堀はその名残が水路や道路に見られる。館を中心に西村と東村に分かれており、かつては金上館主の家臣団の居住地と考えられる。
福島県会津坂下町金上字舘
震災前取材
金上館は、葦名氏一族の北田次郎広盛が築いたのが始めとされる。広盛が北田城に戻された後、藤倉館から藤倉石見守盛経の子盛弘が金上地頭として移った。その後建長4年(1252)、藤倉氏は津川狐戻城を築き移り、盛弘の子盛仁がこの地に残り金上氏を名乗ったと伝えられる。
金上氏は代々葦名氏の重臣として黒川城に仕えていた。金上氏十五代盛備は、天正6年(1578)には、越後御館の乱に葦名勢を率いて越後に赴くほどの武将だった。また、天正9年(1581)には葦名家の名代として上洛し織田信長に謁している。
天正14年(1586)、葦名盛氏の急死により後継者問題が起こると、葦名氏内部は、佐竹義重の次男義広を養子に迎えようとする者たちと、伊達政宗の弟の小次郎を押す一派とに分かれた。盛備は、佐竹義広を養子に迎えることを主張し、伊達派を力で抑え込んで義広の入嗣を実現させた。しかしこれによって、葦名氏内部は分裂し、弱体化することになった。
天正17年(1589)、伊達政宗は米沢から会津に侵攻し、伊達氏と葦名氏は摺上原で決戦になった。葦名氏は初戦では優勢に戦いを進めていたが次第に押され始め、盛備は、伊達家の片倉景綱隊に突撃し戦死した。享年73だった。後世、盛備らの戦いぶりは讃えられ、会津松平藩主によって三忠碑が建てられた。
この敗戦により、葦名氏は会津から去り、金上氏もそれに従ったものと思われる。