震災前取材

福島県鮫川村赤坂中野字新宿

  • 縄張図(現地解説板より)
赤坂館は、標高482m、比高60mのほぼ独立した館山にある。遺構は山頂部と、周囲の山腹斜面に見られ、南、東の斜面に重点が置かれ、尾根伝いに大小の郭が配されている。東側山腹(現山村開発センター)に館主赤坂氏の菩提寺だった中世光明寺があったと云う。

康平年間(1060)、前九年の役に源義家に従って参陣した一族の源有光は、石川荘に土着し石川氏を名乗った。鎌倉時代には支配地を荘の南域まで広げ、庶流の竹貫、板橋、蒲田氏等を配し、石川地方の支配に当たらせた。この地は、石川蒲田氏の一族の赤坂氏が支配した。

しかし、文明年間(1469~87)になると、白河結城氏が石川領に攻め入り、石川氏は圧倒され、石川一族の赤坂氏は、他の石川一族の大寺、小高氏らとともに氏をかえ家紋を改めて白河氏に従った。

しかしその白河結城氏も次第に衰退し、天文年間(1532~54)頃より、関東の常陸太田を本拠とする佐竹氏が大軍を率いて白河結城氏領への進攻を始めた。赤坂城も攻撃されたが耐えて城を固守するが、永禄3年(1560)にいたり、赤坂政光は城を支えきれずついに佐竹義昭に降伏し、その傘下に属した。

天正17年(1589)、佐竹方として赤坂朝光が守る赤坂城に、伊達政宗に属したかつての宗家の石川昭光の軍が攻め寄せたが朝光はこれを撃退した。しかし翌天正18年には豊臣秀吉による奥州仕置により、この赤坂城をはじめとした多くの城館が破却された。

その後、慶長7年(1602)の関ヶ原の戦いの際に、佐竹氏は西軍よりの行動をとった。このため徳川家康により秋田に減移封され、赤坂朝光も佐竹氏に従い秋田に移り、現在の秋田県北秋田市の米内沢に配された。

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