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福島県棚倉町字八槻

八槻都々古別神社は、都々古別(つつこわけ)三社(馬場都都古別神社・八槻都々古別神社・近津神社)の一社で、「中の宮」にあたる。奥州一宮として広く民衆の信仰の対象となってきた。

日本武尊が東征のおり、八溝山の蝦夷と戦ったが勝敗がつかなかった。そこに、神々が出現し、日本武尊に味耜高彦根命の鉾を授けた。日本武尊はその鉾を建鉾山に立て、東に向かって矢を放ち、矢の達した場所に社殿を立て味耜高彦根命を祀り、その加護により勝利をおさめたという。

また、日本武尊は東征のおり、1千回戦い1千回勝ったといわれ、源義家は社号を千勝明神と改め、現在は「ちかつさん」とも呼ばれている。

これらの由来から、それぞれの時代の武将から崇敬され、室町時代には白河結城氏、並びに水戸佐竹氏より数度の寄進があり、豊臣秀吉や石田三成からも崇敬され、佐竹氏からは社頭三千貫の寄進があった。

江戸期に入り、水戸光圀の尊崇が厚く、御神宝が奉納され、社殿修復の際には白銀二百枚が寄進された。又、幕末期、水戸斉昭は、嘉永6年(1853)夷狄退散国家安全を祈ったと伝えられる。

現在も、交通安全・五穀豊穣・家内安全・商売繁昌祈願の参拝者も多く、奥州一之宮として広く信仰を集めており、鎌倉時代以降から狂言風の田遊び「御田植」が伝えられている。この御田植は、明治時代に一時中断されたが、現在は復活し、国の重要無形民俗文化財に指定されている。