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福島県白河市愛宕町

震災前取材

  • 関川寺
 

関川寺は、 古くは関銭院と呼ばれ、通行料(関銭)を取っていたことからそう呼ばれていたとも伝えられるが定かではない。また、この地は古くは、白河結城氏の一族の館があったとも伝えられている。

関川寺は、南北朝期にこの地を支配していた結城宗広によって、結城氏の本拠城の白川城近く西側の、関川窪に中興開基され結城氏の菩提寺となった。

現在地には天正9年(1581)に移り、近世に入ってからは、妙徳寺などと共に寺町を形成し、小峰城の南方の防衛ラインを呈していた。

境内には、南北朝期に、一貫して南朝方として、足利尊氏から京都を奪還するなど各地に戦い、ついに石津の戦いに敗れ、伊勢で病死した結城宗広の遺髪を納めたという墓がある。

また、赤穂義士四十七士の内の一人の中村勘助の妻の墓がある。勘助は、討ち入りの妨げにならぬように、妻子を白河の親戚に預け討ち入りに臨んだといい、寺では毎年、義士の討ち入りの日の12月14日に法要を行い、義士が討ち入り前に食したとされる蕎麦を食すると云う。

戊辰戦争時には、この地の近くでも戦闘が行われ、東軍として戦った棚倉藩士の供養塔と、仙台藩士の墓がある。