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福島県白河市愛宕町…関川寺

震災前取材

  • 中村勘助妻の墓
 

この関川寺に、赤穂義士の一人である中村勘助正辰(まさとき)の妻の墓がある。

勘助は、万治2年(1659)、越後村上藩松平家家臣の三田村小大夫の子として生まれた。18歳のときに、赤穂藩浅野家家臣の中村庄助の娘婿となった。祐筆兼馬廻役で100石取りだったと云う。

元禄14年(1701)3月14日、主君浅野内匠頭長矩が、吉良上野介義央に殿中で刃傷に及んだ際、勘助は国許の赤穂にいた。赤穂藩は改易され赤穂城は開城となったが、その後も職務上、藩政残務処理のため大石内蔵助良雄のもとで働き、幕府からこの間7人扶持を支給された。

仇討ちの義盟に加わり、その後大坂に移り住み、原惣右衛門らとともに元家老の大石内蔵助を支持していたが、吉良への早急な仇討ちを強硬に主張する江戸の急進派の慰撫を内蔵助に依頼され、惣右衛門らとともに江戸に下った。しかし逆に急進派に説得され、原とともに一時はこれに同調した。

その後、業を煮やした大石内蔵助自身が江戸へ下り、急進派を説得し、大石が江戸を発つ際には勘助も供をして京都へ帰った。翌年の元禄15年(1702)5月、山科会議後、心置きなく働くために妻と4人の子を奥州白河の親戚に託すため、内蔵助から旅費5両を借り受け、妻子を白河に預け別れをすませ、白河からその足で江戸に入った。

吉良邸討ち入りの際には裏門隊に所属し、槍をふるって戦った。本懐後は、伊予松山藩主松平定直の屋敷に預けられ、2月4日に切腹、享年45歳だった。主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃露白剣信士。

長男の中村忠三郎は、一族連座して伊豆の大島へ流罪にされ、次男の勘次は、浅草の曹源寺に預けられた。しかしその後、赤穂浪士を絶賛する世論の後押しもあり、浅野内匠頭の正室の瑤泉院(ようぜんいん)の、赤穂義士遺児たちの赦免嘆願が認められ、宝永3年(1706)、幕府は徳川家綱の二十七回忌法事による特赦として忠三郎らを赦免した。

忠三郎は浅草曹源寺で出家して白河で僧となり、次男の勘次も曹源寺で出家して僧になった。妻と娘は、そのまま白河の三田村家に預けられ、妻は享保7年(1722)63歳で白河で没した。