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福島県猪苗代町蚕養字ホナリ乙

 

この母成峠は、かつては会津藩の藩境にあたり、慶応4年(1868)8月21日(新暦10月6日)、東軍800と西軍3000が戦った古戦場である。

江戸城無血開城の後、西軍は東北地方に進軍し、その強硬な姿勢に対し、奥羽諸藩は奥羽越列藩同盟を結び抵抗し東北戦争が始まった。東軍は平城、白河城などで西軍を迎え撃ったが敗れ、7月29日(新暦9月15日)には二本松城が陥落し、西軍はその矛先を会津へ向けた。

会津へ入るには何ヶ所かの街道があるが、会津藩は日光口の会津西街道、白河口の勢至堂峠、さらに二本松と若松を最短で結び、当時の主要街道であった二本松口の中山峠を厳重に固めていた。中でも西軍は中山峠に殺到すると予測し、特に厳重に防備を固めていた。

しかし西軍はその裏をかき、この母成峠に主力を進め、中山峠には陽動部隊を派遣した。母成峠には、大鳥圭介率いる旧幕府陸軍の精鋭の伝習隊が布陣しており、その他、仙台藩兵、二本松藩兵、新撰組ら800ほど が守っていた。

8月20日に坂下で前哨戦が行われ、伝習隊が奮戦し、西軍の進撃を食い止めたが損害は大きかった。翌8月21日、濃霧の中、西軍3000は、本隊と右翼隊に分かれて母成峠を目指した。西軍は薩摩藩兵と土佐藩兵を主力とする精鋭だった。戦いは早朝に始まり、東軍は兵力を縦深陣地に配備し、洋式訓練を受けた伝習隊は善戦したが、 会津勢は西軍の側面攻撃を受け支えきれず敗走し始めた。伝習隊は殿となり奮戦したが大きな被害を受けた。夕方頃にはほぼ勝敗は決し、母成峠は西軍が制した。

母成峠を突破した西軍は、翌日、怒濤の勢いで猪苗代へ向けて進撃、会津勢は猪苗代城に火を放って若松へ撤退した。猪苗代に到達した西軍は、会津勢に守りを固める余裕を与えず、そのまま若松へ向けて進撃を続けた。会津藩は、自然の要害の地の十六橋に白虎隊などの予備兵力をかき集めて出陣させ ていたが、西軍は猛進し十六橋を突破、戸ノ口原の戦いで白虎隊らの会津勢を破り、23日朝には若松の市街地へ突入した。

母成峠での東軍の戦死者は88名、西軍の戦死者は35名だったと云う。東軍戦死者の遺体は、当時西軍のきびしい命令により埋葬を許されず、戦後しばらくの間、放置されたままになっていたが、これを見かねた人々が、西軍の目を盗んで遺体を集め仮埋葬した。その後、この地は草木に覆われ所在がわからなくなっていたが、昭和53年(1978)発見され、以降慰霊祭が行われ、昭和57年(1982)慰霊碑が建てられた。

現在、母成峠には、古戦場碑や戦死者の慰霊碑が建てられ、また当時の土塁等も残されている。