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福島県大玉村玉井薄黒内…玉泉寺境内

2011/04/05取材

 

大河内氏は、三河大河内庄にいた源氏の支流で、大河内日向守光盛は、天文元年(1532)会津葦名氏に仕え、この玉井郷を領し玉井氏を名乗り、玉井城を築き居館とした。この玉泉寺は光盛が開基した。この時期、塩松の石橋氏の家臣で、宮森城主に大河内氏がいるが、光盛は、石橋氏が次第に衰退し大内氏に牛耳られるようになり、大内氏らとの対立の中で石橋氏を離れた大河内氏の一族とも考えられる。

この時期の葦名氏は、葦名盛舜が家督を継承し、家中の内訌を治め、隣接する勢力との接触が表面化してくる時期だった。天文元年(1532)には、南山に長沼氏と戦い、天文3年(1534)には、伊達、石川氏らと連合して、岩城、白川氏らと戦った。

この地は安積地方に隣接し、安積地方は、伊達、石川、岩城、白川、二階堂、田村各氏の草刈場になっていた。そのため、この地は南奥の一大勢力としての地位を確立するためには葦名氏にとっても重要な地であった。

天文11年(1542)、陸奥守護職で南奥羽の一大勢力の伊達氏内部で、伊達稙宗と嫡男の晴宗が争う天文の乱が勃発した。乱は周辺の諸氏を巻き込み、天文17年(1548)、葦名氏が与した晴宗が勝利し終結した。稙宗は丸森へ隠居、晴宗は家督となり居城を西山城から米沢城に移し、伊達氏歴代の本拠城の西山城は破却され、仙道地区の伊達氏の勢力は一時衰退した。

葦名氏はこのような中その地歩を固め、会津守護を称し、葦名盛舜の跡を継いだ盛氏の代に全盛を迎える。盛氏は、天文の乱では伊達晴宗側として各地に出兵した。天文16年(1547)、田村隆顕は畠山義氏、石橋尚義とともに安積郡に侵攻し10ヶ城を落とし、玉井氏の玉井城もこのとき落城した。しかしその後、岩城勢が田村郡小野地方に侵攻、葦名盛氏もこれと連携し安積郡に兵を出した。

大河内氏(玉井氏)は、葦名氏の仙道進出に大きな役割を持っていたと考えられ、玉井城落城後も早い時期にこの地に復帰したと考えられる。玉井氏初代の大河内光盛は、弘治元年(1555)激動の中没した。

葦名盛氏は、天文の乱後も盛んに出兵し、二本松の畠山義継、須賀川の二階堂盛義、三春の田村清顕などの諸将を片っ端から斬り従え勢力を拡大していった。

天正期に入ると、葦名氏は当主が早世するなど後継者に悩みながらも、伊達氏や二階堂氏らとの姻戚関係で、仙道地方は一定の安定を保っていた。しかし、米沢を本拠としていた伊達氏が仙道への復帰を目論見、伊達政宗が跡を継ぐと、仙道地方は一気に流動化し始めた。

天正13年(1586)、政宗は塩松城の大内定綱を攻め破り、同年、政宗の父輝宗がニ本松の畠山氏に捕らえられ、阿武隈河畔で非業の最後をとげた。政宗は、翌天正14年(1587)、二本松城を落とし畠山氏を滅亡させ安達郡を手中にした。

天正16年(1588)2月、伊達政宗が大崎氏との戦いで大敗すると、葦名義広は伊達方の郡山城や本宮城を攻め立てた。伊達勢の二本松城主伊達成実は寡勢でこれを守り、伊達氏と葦名氏は、各所で戦ったが、葦名氏の内紛などもあり決戦には至らなかった。

このような中で、天正16年(1588)3月、玉井城は伊達勢の攻撃を受け、300人余りが討ち取られ落城し、玉井氏は滅亡した。翌年の天正17年(1589)7月、伊達政宗は摺上原で葦名氏を破り、大名としての葦名氏は滅亡する。