島県三春町字桜谷

震災前取材

 

河野広中(ひろなか)は、(1849)8月、三春藩郷士の家に生まれた。河野家は100石を給せられる他、呉服商、酒造業、魚問屋などを手広く営んでいた。川前紫渓に儒学を学び、その影響で尊皇攘夷論を唱えるようになった。

戊辰戦争にあたっては、三春藩は当初、奥羽越列藩同盟に加盟していたが、河野らは明治政府への帰順を工作、東山道先鋒総督府参謀であった板垣退助に会見し、藩を帰順へと導いた。

明治に入ってからは、福島石川の区長などを歴任したが、藩閥政治の中にあって、国会開設をめざし、自由民権運動に傾斜していく。

広中は、三春に政治結社「三師社」をつくり、学塾「正道館」を創設し、政治雑誌「三陽雑誌」を発刊した。多くの運動家を育て、この地の多くの者たちとともに自由民権運動に参加し、三春は東北地方の自由民権運動の中心地となっていった。また、わが国最初の政党「自由党」の結成には代表を送り、党の活動にも積極的に関わった。

これに対し、当時の福島県令三島通庸は、明治15年(1882)秋に喜多方で農民達が集結したのを好機として、明治政府の力を背景とし、大弾圧を強行した。河野広中ら三春町出身者10名を含む、58名の運動家を逮捕し、これは後に「福島事件」と呼ばれた。国家に対する罪を犯したとして裁判にかけられ、河野ら10名が有罪とされた。

この福島事件以後、自由民権運動は全国的に激化した。弾圧を受けた県内民権運動家は、明治17年(1884)、栃木県令に就任していた三島通庸を暗殺しようと行動し、最終的に茨城県の加波山で挙兵決起することとなった。この、後に「加波山事件」と呼ばれる決起に参加したのは16名だったが、その中には河野広中の甥広体、琴田岩松ら、5名の三春町出身者がいた。しかし、この挙兵は失敗し、参加した16名を含む130名もの人々が逮捕された。琴田を含む7名が死刑、河野広体ら5名が無期徒刑となるなど、多数の人が処罰された。

民権運動の高まりの中、明治政府も国会の開設、憲法の発布を検討するようになり、明治22年(1889)、大日本帝国憲法が発布され、翌年には第1回の衆議院選挙が行われ、帝国議会が成立した。

明治22年(1889)、大日本帝国憲法発布に伴う恩赦によって出獄を許され、明治23年(1890)第1回衆議院議員総選挙に出馬、初当選し、以後、大正9年(1920)の第14回衆議院議員総選挙まで連続当選した。

明治36年(1903)に第10代衆議院議長に選ばれたが、第19議会開院式で、対ロシア強硬派の立場から、勅語奉答文で桂太郎内閣を弾劾し、また明治38年(1905)には、ポーツマス条約に反対し、日比谷公園で講和条約反対を目的に開かれた国民大会の議長をし、日比谷焼打事件をおこすなど、その議員生活は波乱に富んだものだった。

大正12年(1923)12月29日死去。享年74。

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