福島県三春町字大町

震災前取材

 

別名:舞鶴城

三春城は、三春町の中心部、標高407mの丘陵地にある。戦国期は田村氏、江戸期は松下氏、加藤氏、秋田氏の居城となり明治に到る。現在は公園として整備され、城跡近くには、町役場など公共機関が集まっており、現在も一帯は三春町の中枢部である。

戦国時代の三春城は、山頂部分の本丸に城主居舘を置き、それを中心に郭を配置した典型的な山城だった。近代に入り松下長綱により改修が行われ、本丸西に二の丸、東側の山麓に三の丸が設けられ、それらの周囲の丘陵の中腹地には重臣の屋敷が配置された。さらに秋田氏時代になると、藩主の居舘を山頂の本丸から山麓の三春小学校付近に移し平山城となった。天守は無かったが本丸下段に三層三階の櫓があり威容を誇っていたと云う。

三春城の築城時期、築城者は定かではないが、永正年間(16世紀初頭)に田村義顕が郡山の守山城より三春城に本拠をうつしたという。田村氏は田村郡全域を支配していた豪族で、坂上田村麻呂の子孫と伝えられる。田村郡のある仙道地域には、会津黒川城の葦名氏、小高城の相馬氏、岩城郡の岩城氏、出羽米沢城の伊達氏、常陸の佐竹氏などの周辺勢力がその勢力拡大のため進出してきていた。その中にあって田村氏は、これら各氏と血縁関係を結び、それら豪族の利害関係の中で領地を保っていた。

永禄元年(1568)の葦名盛氏の仙道侵攻に対しては、隆顕は正室の実家である伊達氏を後盾にこれに対抗し、また、天正元年(1573)の佐竹氏の仙道進出には、葦名氏と連合を組んでこれを撃退している。しかし、その後葦名氏と佐竹氏は同盟を結び、さらに同じ仙道地域の二本松の畠山義継や小浜の大内定綱らもそれに呼応した。このため田村氏は四方を敵に囲まれることになった。

田村清顕の正室は相馬顕胤の娘であり、相馬氏とは友好関係が保たれてはいた。しかしさらに清顕の一人娘の愛姫を伊達輝宗の嫡男、伊達政宗に嫁がせ、伊達氏とも同盟関係を結んだ。しかし、この当時、相馬氏と伊達氏は伊具郡を巡って対立を深めており、相馬氏は佐竹氏、葦名氏等と手を組むことになる。

天正12年(1584)、伊達政宗が伊達氏家督を相続すると、政宗は積極的に仙道に進出してきた。このため、田村氏を除く仙道地域の諸豪族は佐竹、葦名、岩城、相馬などと連合を組み伊達氏に対抗した。しかし政宗は天正13年(1585)冬、人取橋の戦いにおいて伊達、田村軍は数的に圧倒的不利な状況で佐竹氏、葦名氏等の連合軍を破った。

天正14年(1586)に清顕が死去し、清顕に男子がいなかったため田村氏は家督が不在となる状況が生じた。そのため、清顕夫人(相馬顕胤の娘)が三春城主となった。田村家中は清顕夫人の縁に頼って相馬氏と同盟をくむべしと主張するグループと、これまでどおり伊達氏との同盟を継続すべしと主張するグループに分裂した。天正16年(1588)、相馬派は家中掌握のため相馬義胤を三春城に入城させようとした。相馬義胤は三春まで進出するが、伊達派の田村月斎等の反撃のため撤退を余儀なくされた。その後、伊達政宗が三春城に入城し、一ヶ月半程滞在し田村領の仕置を行い、家中から相馬派は一掃され、清顕の甥の田村宗顕を三春城主とした。このときをもって、田村氏は実質的に伊達氏に従属したといってよい。

田村氏は政宗の指示により小田原攻めに参陣しなかった。そのため豊臣秀吉の奥州仕置によって改易となり、田村家中はその後、伊達氏に仕えた者、新領主蒲生氏に仕えた者、帰農した者などそれぞれの道を歩むこととなった。宗顕はその後、政宗の保護下にあったが早逝し、田村氏は一時断絶、伊達政宗の孫宗良が田村家の名跡を継いだ。

奥州仕置により三春城は蒲生領となり、その後は上杉領、再び蒲生領、さらには加藤領と移り、寛永5年(1628)松下長綱が三春三万石に封じられた。この松下氏時代に三春城は改修され、それまでの戦国城館的なものから近世城郭として生まれ変わった。現在の三春城の構造は、この松下氏時代の城郭を基本としているものである。

松下長綱は寛永21年(1644)に改易となり、翌年秋田俊季が五万五千石で三春へ封じられた。秋田氏はその後幕末まで三春を支配した。幕末の戊辰戦争の際には、西軍が隣藩の棚倉城を落とすと、三春藩は奥羽越列藩同盟を脱退し西軍に降伏し、明治4年(1871)の廃藩置県によって廃城となった。

その後大正11年(1922)に山頂本丸部分は公園として整備され、山麓の秋田氏時代の居舘跡や武家屋敷があった地域は、現在役場や合同庁舎、公民館、小学校などとなっている。

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